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捨てる友あらば


↑こちらでは、私の地獄の高校時代そして、その後の旅行でのトラウマエピソードを綴りました。

 そこには、肝心なことが書けませんでした。


私の花の中学時代

 その頃、地域には三つの中学校があって、各中学校には、2クラスずつ各学年あったのだと思う

 もう40年以上前に既に過疎化が進んでいて私たちが卒業の年に中学校は全て閉校して町に一つのマンモス中学校ができることになった

 私たちは卒業式と閉校式が同時に行われる年の卒業生となった、

 私の人生できっと一番スポットライトが当たったのが中学1年の頃だったと思う

 入学したのは、半年だけ通った小学校のメンバー4名で女子のみだった。

 入学した中学校の大半が町1番の大きな小学校の出身者で占めていた

 合計三つの小学校から集まっていたのだと、かなり経ってから私は知ることになったのだけど、10名くらいの単位で来ている小学校と私たちは最小の4名で、それでも学年90人弱だったと思う

 

どの子と同じクラスになりたい?

私はそういえば小学校6年の担任から卒業間近の日に呼び出されたことがあった

まだ、ザワザワしているホームルーム前の全員席についていた時だ

 呼び出されるだけど過呼吸になった

 担任からコソコソ話で
3人のうちの誰と、と言って指差した名簿には、住んでいる公民館集落単位の女子3名の名前があった。

同じクラスになりたいのか?と聞かれたのだ

 ありがたいことに二人にはもう一緒に学校に行けないから‼️と言われたが、のちの一人が気心が優しくて、寡黙だけど幼いながらなんでも家の手伝いをしているたくましい女子だと判明した。

私は迷わず指を指して言った

 この子とでお願いします‼️
(なんか花いちもんめ  みたい)この子が欲しい!この子じゃわからん。はないちもんめ🎶

 ※すっかり忘れていたことだけど書くことで思い出すことってあるものだ↑

 担任は

?え?
 この子?で良いの?って顔で私に目で聞いてきた

 遠慮してると思ったのか?私には、わからない

 活発的な二人と比べたら、奥手というか、目立たない存在の彼女だったからか。

 

 ただ悲しいかな、
また中学に行く道がわからなくて、親から同じ指令を受けることとなった😭

小6の初日に門を叩いて、すぐにもう一緒に行けないよ!と言われたにも関わらず、また、一緒に行って‼️と頼む羽目になった

 いやだったと思う。言われた方も。
今思えば。

 また来た。
また〜⁉️なんで?私?

 そして、また、少し時間が経ったところで同じことを二人から言われたことは、言うまでもない

 明日から一緒に歩いて行けないからね。

 私たち早く行かないといけないの。

 意地悪そうな顔に見えた。

 私は一学期の早々に一人で歩いて3キロのポツンと一軒家にも出てこない獣道が通っている緑深い山道の徒歩通学が始まった

 それでも、私のクラスは
楽しかった

 私の出席番号の後ろの女子がめちゃくちゃ自然体で優しくて、明るくて、ひょうひょうとしてて、私のことを

可愛いね。っと言ってきたのだ。※多分、学年1チビだっから、サイズがSSサイズで可愛いってこと。それでも嬉しかった。誰にも声をかけることなく、六年間も過ぎた人生で
私はひたすら、椅子に座って誰かに声をかけられるまでは、全く話さないタイプの繊細さんだったから。救いの手だった

 親からはブスだ。なんだと可愛いいなんて言われたことがなかったし、小さいから可愛いね。だったとしても話しかけてくれて、めちゃくちゃ嬉しかったのだ

 たちまち私はいつも彼女と一緒に行動するようになった。
 彼女は私をどこに行く時も連れてってくれた

目立とう精神炸裂期到来

 
私は虫が嫌いだった
アリも。

 そんな私に彼女は、イタズラをして

 ほらほらほら〜とアリをくっつけてきて、私は隣のクラスまで入って逃げ惑うほど、まるで鬼ごっこをしてるみたいに私は逃げた。

 隣のクラスの人たちは、いきなり知らない女子二人が教室の中を駆け回ってまた出ていくので目立ってしまい、笑われたりもした。

 その時に何かのタカが外れたと思う

 その時の我が家は崩壊同然だった。お金はない。仕事はない。借金はある。親は泣く。大阪に帰る!帰りたい!

 何十回とあった。

喧嘩も日常茶飯事

 父も酔っ払ってから軽トラで怒って家を出ることもあった。

 そんな私の感情は、みんなが笑ってくれることで
生きながらえていたのだろうか?目立とう精神だ。

 どこか頭がおかしくなったんだ思う

 テンションが上がって
ぶっ飛んだ行動をとって、笑いをとることに快感を覚えた。


一度笑われると、いつも笑わせないといけない感情にでもなっていたのだろうか?

 笑いが通じない場面でも叱られるほど私は、おちゃらけるようになった

 笑われてナンボ。

 その時が人生のピークかな。
本当はどん底なのに。
生きるのも
 お腹もいつも空いていたし。

 帰るとご飯だけは残っていて白ごはんを弟とその場でおにぎりにして、おやつにしていた

まさかの文化祭のヒロインに

 文化祭で◯◯大賞
みたいな人を選ぶ出しもので
私は
 なんとプリティーガールという称号を手にした

 でも、それは、ある一人の子が意地悪をして、全部投票用紙に適当に殴り書きで私の名前を入れるという、いじりだったのだとあとから、知ることになるのだけど、それでも私は
大嫌いなカメラで写真を撮られて、文化祭で紹介されるコーナーで張り出されたのだった

 もちろん、他にもたくさんの大賞があった。

 いじりでも私の名前が書かれるという奇跡は、私の後ろに座った子が虫をひっつけて、走り回らせてくれた恩恵だと今でも感謝している

 そして、その文化祭の演劇部門で私は主役にも抜擢されたのだ。

 これは小6の辛かった孤立した日々からの脱却で神様からのご褒美だと思っている

 そんな大層な演劇でもなく、子どもだけで作ったおちゃらけた寸劇だったけど。

 三年生女子から大人気なイケメン男子に私は顔をビンタされる役所だったのだけど、ぎゃ〜‼️という嫉妬の声に
私の母親も娘はなんか知らんけど、何にも聞こえない変な芝居の何かしら、中心的なシーンで
登場した。と少しだけ嬉しくさせる出来事にもなったかもしれない。

 私が悩んでいた小6時代のことや中学通学の孤独さなんか、何一つ知らない母だったから


部活動

 私は結局、その子が連れてった器械体操部に知らないうちにその日のうちに入部していた

 それは、それでまた、後に
バレー部やテニス部になんで入らなかったのだろう。と
疑問に思う日々にも繋がるのだけど

 

   つづく


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