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偏愛 都会

自分の愛情は偏っている。フランスじゃなくてパリが好き。東京じゃなくて江戸時代からある江戸市中が好き。そして京都じゃなくて洛中が好き。

都会好き なのだ、きっと。
栃木の那須にしばしば行く。親族の所有する小さな小屋があって保全のため定期的に掃除をしに行く必要がある。緑に囲まれ 鳥の囀りで目を覚まし 時間の制約を感じさせない 水も空気も格段に美味しい 温泉に毎日入れる 野菜が美味しい そんな生活がそこにはある。
あーやっぱりいいなぁー。行った日とその翌日は ゆったりとしてホッとする。そして、ああ、こんな暮らしもいいなと思う。携帯も見ないしテレビもつけない。人工的な音も光も少ない暮らしを2日ほどは満足して暮らす。

でも3日目の朝、小鳥の囀りで朝の4時半に目が覚める。まだ夜が明けていなくていてこのまま寝るかどうするか寝床で考える。考えているうちにどんどん明るくなるとその日以降は もういけない。緑の多い暮らしは雑草と樹木の生育に際限なく悩まされる日々に変わり、温泉の脱衣所のロッカーとカランを見ず知らずの観光客と奪い合い 生産者の名前入りの地元野菜だけはお得だけれど他のものはむしろ自宅近くのスーパーのほうが安かったり新鮮だったりする買い物にも満足できず 歩いてどこかに出かけるということもできない。ちょっとパンが欲しくても 気晴らしにコーヒーを飲みたくても まず車のエンジンをかけなければ 移動できない。中途半端に観光地なので、出かけた先で駐車場が満杯ということもある。ここがダメならあそこ、と思う店も距離があるので 明日の朝食用のパンを求めて際限なくぐるぐると車で動かなければならなくなる。

パンなんてつっかけを履いて買いに行くものだと思っている時点で 郊外でのゆったりした生活には不向きなのだ。時刻表に合わせて外出の支度をして電車に乗ることができない。見逃しても2分後には次の電車が来るのに、この電車に駆け込もうとする生活をずっとしてきたので。

生育歴の問題なのかもしれない。都会で生まれ育ってしまったがゆえに 生活のテンポが早くなければ自分には合わなくなっているのかもしれない。
本来 友達も少なく 毎日人に囲まれて暮らしたいとは思っていない。1人で長い時間過ごすのはむしろ好きなほうだ。賑やかよりも静かが好き。繁華街に出かけて行って飲んではしゃいでという中には加わりたく無いし、ノリが悪いので当然誘われもしない。性格的にはきっと郊外のゆったり生活があっていたのだろうが、日々身についた習性は恐ろしい。

少し前に北海道の東川町での暮らしをテレビで見た。冬はパウダースノーに囲まれてスキー三昧、夏は冷房いらず、釧路空港を使えば東京からほんのひとっ飛びで空港からは車で15分の距離と聞いた。その日から東川町にどうやったら住めるか考えだしたのに、現地のGoogleストリートビューを見て少し考えが改まった。那須よりもっとのんびりした生活がそこにあった。どこまでも広がる空、畑に囲まれた一軒家、きれいに区画されたゆったりとした住宅地。どんなに憧れてもきっと私はそこには住めない、と実感できる風景が広がっていた。東川町が悪いのではない、素晴らしい場所で住んでみたいとも思っているが、きっと私は耐えられないだろう。歩いて移動して買い物をしたり病院に行ったりして生活を整えたり、時間を気にせず公共交通機関を利用したりすることが叶わない土地には きっと私は住めないだろうと思った。

きっと終生 この都会で 暑さとほこりと乾燥した冬の空気に悪態をつきながらそれでも都会暮らしを手放さないで過ごしていくんだろうなと思った。


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