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「自己分析」を怠った結果、自分の幸福が分からないまま、空虚な社会人生活を送ることになった話。

平日6時、スマホが音楽と共に振動する。
大好きだったシティポップの音楽も、
目覚ましに設定したら
3日目で嫌いになった。


まだ眠りたい目を擦って真っ先に呟くのは、
「仕事行きたくないなぁ…」

午前10時。
職場で仕事をしながら考えているのは、
「昼休みはまだかなぁ」
「給料日まであと何日かなぁ」

午後7時。
帰路に着く頃考えるのは、
「この日々があと何十年も続くのかぁ…」

わずかに残った仕事終わりの体力でやることは、
ぼさっと音楽を聴いたり、
別に見たいわけでもない、
だけど妙に唆られるサムネイルの誘惑に逆らえず
動画を開く位である。

そして精魂尽きた週末が来て、
ただ部屋で惰眠を貪ると、
新たな週が始まっている。

「自分は何をやっているのだろう」とか、
「これからどうしよう」と考えることが
時々頭を巡っても、結局何も行動しない。

給料もさほど悪くないし、
人間関係もまだ良好だ。

今すぐ対処しなければ
いけない問題じゃない。

そうして気づけば
1年目が過ぎ、
2年目が終わり、
仕事の裁量も責任も増えていた。

やる気は充実感は、未だ皆無なのに。

勤め先の規模はそれほど小さい方ではない。
株主や世間の目も厳しく、
法律の遵守はしっかりしている。
大変な時期もあるが、
休みもさほど少ないわけではなく、
世間では「ホワイト企業」と揶揄されることもある。

そんなホワイト企業に勤めていても、
満たされない事に驚いた。

というか、
少し考えれば、
そんなのは当たり前だ。

「やりがいのある仕事や、働きやすい環境を提供する企業」はあっても、
「従業員一人ひとりの幸福まで、面倒を見る企業」はこの世界に存在しないのだ。

個人の幸福は、
その個人によってのみ定義され、
その個人によってのみ追求されるものだから。

「自分にとって何が大切か」
「どんな生き方・働き方をすることが、私にとって幸福か」
「そもそもなぜ働くのか。私にとって働くとは?」

就活時期に突然耳にすることが増えた
「自己分析」という活動は、
他でもない就活生一人ひとりのための時間だったのだと、
生殺しで手遅れの日々を送る今、しみじみと感じている。




「理系大学生は潰しが効く」と
世間で吹聴されていた甘言に乗せられて、
高校ではなんとなく理系を選んだ。

そのまま手近な大学に進学し、
なんとなく専門の授業を受け、
なんとなく研究室に配属され、
なんとなく研究をしていた。

気がついたら就活の時期が来て、
とりあえず理系ということで、
推薦が来ている企業を適当に受けて、
気づいたら就活が終わっていた。

「年収は多い方がいい」
「休日は多い方がいい」
「事業規模は大きい方がいい」とか
本質とは甚だ遠いとこばかりを見て、
自分自身を鑑みることを怠っていた。

「良い環境で働く」ことがゴールになっていて、
「自分の人生を幸福にしていく」という
人間として生きる上で大切な根幹が蔑ろにされていたことを、
ここにきて再確認する。

そのツケを今、
24時間365日かけて払わされている。



中学・高校時代は
感受性も豊かな時代で
確かに波瀾万丈だった。

だけど、今ほど苦しくはなかった。

「テストの点数」「偏差値」によって、
同じ教室内でも生徒間に明確な優劣が定められ、
しかるべき競争が目の前にあった。

だから少しでも周囲に尊敬されたければ、

がむしゃらに問題集を解くだけだった。
ひたすら漢文を暗記するだけだった。
とにかく数式を叩き込むだけだった。

それだけで結果が出て、
一目置かれて、
優越に浸ることができた。

これがまずかったと、
今なら心から思う。

もっと挫折する必要があった。
否が応でも己と向き合う状況を、
作るべきであったのだと。


現在。

通勤電車に乗れば、
有名著者の新書広告、
美容外科のポスター、
魅力的な観光地の情報を
そこかしこに張り巡らせてくる。

一度スマホを開けば、
登録していた配信者の最新動画、
芸能人のホームパーティ写真、
友人の海外旅行の様子などを
一方的に浴びせかけてくる。

資本主義社会は、
無尽蔵に欲望を煽り、
人々の財布からお金を引き出させる。

高度に情報化された社会は、
人々の時間までも奪い合い始めた。

そんな無限の欲望に塗れた世界から
己の心身を守り、
本当に必要なものだけを選ぶために
大切なことが、

他でもない
「自分を知る」という行為だった。


今より時間のある学生時代に考えるべきだったのだ。

「私の人生には何があれば幸せか。」

「お金や時間や友人は多い方がいいかも知れない。
 だけど自分には、
 どれほどのお金と時間と友人があれば、
 腹の底から満たされていると言えるだろうか。」

その問いに"ひとまずの"解を出し、
即答できる人になる努力が必要だったのだ。

「『自己分析』とかやけにカッコつけた名前で気に入らない」
と思うならば、
「自分を知ること」とか言い方を変えて親しみを持たせたりしながら。

「最後に心から笑ったのって、いつだったっけ?」みたいな
ちょっと楽しいことから思い出して見る程度でもよかったのだ。


社会に出て、
責任と業務に追われて、
時間とお金を渇望する日々となってからでは
見えないことが多すぎた。

自分の声が、
世界のノイズに
掻き消されてしまう前に。

コンクリートジャングルで
生存競争の日々の中、
いつか抱いていた夢が
すり替えられてしまう前に。

私はもっと、
私と向き合うべきだった。
私の心と向き合うべきだった。
私の幸福と向き合うべきだった。

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