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消えない思い出



私は眉間の少し上には
小さな光る傷がある。

普段は見えずらいけど
眉をしかめたりしたときに
縦に1センチくらいのシワのように
その傷は凹んで姿を見せる。

それは小学生1年生の時に
いじめで投げられた石が眉間にあたり
ケガをした時のものだ。

眉間を切ったままで
家まで一時間かけて帰った時には
だらだらと流れる血で
鼻の奥が生臭く感じた。

私は帰宅してもその服を隠し
ゴミに混ぜて捨てて
顔を洗って絆創膏を何枚もはり
自転車で転んだのだと嘘をいい
母にも父にも言わなかった。


当時は不登校など許される環境などではなかった。


行きたくないと言えば
親からの暴力を受ける。

学校へ行けば
同級生からの暴力や罵倒
嫌がらせが待っていた。


辛くて泣いている私を
先生は冷やかすような言葉で呆れ気味に言い
またその言葉は同級生が
私をはやす新しい言葉として使われた。

学校の行き帰りは
いつも見つからないように
隠れてこそこそと移動していた。

知らない車の荷台に乗って隠れ
家の近くで飛び降りた事さえある。


右手の甲と掌に
大きく広がったシミは
火傷したときのものだ。

私をいじめていたグループの子の
何かが無くなったと
たぶんいじめる理由をつけて
私が盗んだのだと言ったのだと思う。

無実を証明したければ
燃えるストーブから石炭をつかんで出し
火傷しなければ無実だと認めると
そう笑いながら言われた時のものだ。

小さなスコップに乗せて
差し出されたそれは
黒くなってはいたが
立ち上る煙が醜悪に見え

泣いて嫌がる私に
彼らは顔につけるのとどっちがいいと迫った。

石炭を掴むと
一瞬肉のこげるにおいがして
激痛が走り

私は手を開いてそれを落としてしまった。

やっぱり泥棒だとののしられ
火かき棒で背中を殴られ
熱したそれで髪を焼かれ
焼けたスコップが私の手の甲に当てられた。

泣いて頼んでも助け手は現れなかった。


ただ、
毎日が本当に地獄のような日々だった。


もう10年という長い年月をも軽く超える今でさえ
当時の夢にうなされて目覚める朝もある。


あの時の同級生を
一人づつ同じ目にあわせてやりたいと
本気で何年も思った事もある。


同窓会などと言う物に
出席した事は卒業してから一度もないが

今の彼らは
どのような顔で親になっているのだろう。


今は
あなたたちのあの6年間は
本当に楽しかったですか?と

心からの笑顔で聞きたい気もします。


私の6年間を踏みにじって過ごした
楽しい6年間の思い出を

あなた達は語れますか?


殺意を抑えて皆さんと
会える日がいつか来るといいなと
思ってます。



どうかその日まで 

お元気で。





消えない思い出
2006年12月08日

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