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時間切れ!倫理 148 田中正造 2

 田中正造はその後も、講演会で多くの人に問題を訴えたりしながら鉱毒問題の解決に向けて活動を続けました。
 渡良瀬川に鉱毒が流され続ける問題に関して政府はどのようにしたか。政府は渡良瀬川の下流に遊水地という大きな池を作ります。有害物質を含んだ水をこの池に一旦溜めて、有害物質が沈んだ後の上澄みを流すという対策を取りました。大きな池、渡良瀬川遊水池というものを作るわけですが、そのためには広い土地が必要です。遊水池の候補地となった村の人々は強制移住をさせられました。強制移住させられた村が、谷中村です。実は、この谷中村が、一番被害が激しく、一番積極的に抗議運動をやっていた村です。だから、これは反対運動潰しでもありました。当然、村の人々は移住に反対して村に住み続けます。田中正造も谷中村に引っ越してきて、村人と共に移住反対運動を続けました。しかし国家権力には負けてしまい最終的には全村移住させられました。
 私は、何年か前にこの渡良瀬川遊水池に行ってみました。半分は大きな池になり、半分は湿地帯になっています。大雨が降るとこの湿地帯も水没する、そういう構造だと思います。非常に広い地域です。田中正造の家の跡地がのこっていました。
 こういう運動から離れることなく、田中正造は運動に身を捧げたままなくなります。元々は地主であり、財産もあったはずなのですが、私財はすべて運動のために使い果たしていた。亡くなった時の全財産は、小さな小屋のような家にあったズタ袋だけ。その袋の中に何が入っていたかというと、書きかけの原稿と新約聖書。それとは別に新約聖書の一部である「マタイ伝」だけを取り出した本も入っていたそうです。この人が、どこでキリスト教と接触したかは分かりません。キリスト教徒かどうかも、私は分かりませんが、たぶん最後の最後まで、心の支えとして新約聖書を読んでいたのですね。明治時代におけるキリスト教のパワーは大きいですね。
 教科書に田中正造の写真が載っています。鉱毒事件の解決に奔走して、自分の格好などには全然頓着していない、ボサボサの髪の毛でヒゲは伸ばしっぱなしで、こちらを向いている晩年の田中正造です。彼の言葉、「民を殺すは国家を殺すなり」。
 ちなみに、先ほど紹介したマルクス主義経済学者の河上肇は、足尾銅山鉱毒事件に世間が注目しているときには、大学生でした。田中正造など鉱毒問題解決を目指す人々、及びその支援者等は、各地で講演会を開いて足尾銅山鉱毒事件を訴えていました。
 ある日、河上肇はその講演会に出かけていきます。鉱毒事件に対して非常に義憤に駆られる。自分もこの事件の解決の力になりたいと思います。講演の最後には主催者はカンパを募ります。河上もカンパをしようと思うのですが財布の中にお金がない。貧乏学生なんです。
 そこで河上は主催者のところに行って「服でもいいですか」と聞いた。主催者側が「いいですよ」と言うので、河上肇はマフラーを外し、コートを脱いで、どうぞと寄付した。12月だったんです。「脱いだら寒いですよ」と主催者側に言われたのですが、そのままコートを寄付してきた。昔のことだから、着物でも金になるのですね。
 下宿に帰って河上肇は、あれだけでは足りないと考えて、いま自分が着ている服以外の服を全て箱に詰めて支援団体に送りつけました。たくさんの服が送りつけられてきたので、支援団体の人たちは心配する。この人大丈夫かな?と考えた。送られてきた服の胸のポケットに住所を書いた名刺が入っていたので、わざわざ彼の下宿まで様子を見に行った。ちょっとおかしい人ではないか、とも思っていたようです。河上肇は不在で、近所の人に様子を聞くと、変な人ではない、真面目な学生さんだということで、そのまま服を受け取ったそうです。河上肇は真っ直ぐでものすごく正義感の強い人だったんですね。話がそれました。

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