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時間切れ!倫理 143 内村鑑三

 内村鑑三は、北海道大学の前身である札幌農学校でキリスト教に触れます。北海道は江戸時代は蝦夷地と呼ばれていました。松前藩や幕府は、アイヌの人々を使役して海産物を収穫していましたが、内陸部はほとんど手つかずでした。明治時代になり、北海道と名称を改め、本格的な内陸部開拓に着手します。その一環として、北海道の風土に合った農業を広めるために設立されたのが札幌農学校です。
 この学校の設立初年度にアメリカから招かれた農学者がクラークという人です。彼は非常に熱心なクリスチャンで、かつ人間的な魅力にも富んでいたのでしょう。札幌農学校に入った日本人学生は次々にキリスト教に改宗していきました。クラークは一年未満しか日本にいなかったのですが、1期生でクリスチャンになった学生たちが、2期生以後の学生達にも布教をして、多くの学生がキリスト教徒になりました。
 内村鑑三は、その2期生です。彼は、みんなしてキリスト教徒になるような雰囲気に反発していたのですが、最終的には彼もクリスチャンになりました。実は新渡戸稲造も札幌農学校出身で、ここでキリスト教徒になっています。新渡戸稲造と内村鑑三は札幌農学校で同級生です。また、同志社の新島襄は、日本に来る前のクラークとアメリカで出会っています。クラークという人は実に大きな影響を日本のキリスト教徒人脈に与えているのです。現在でも北海道大学に行くとクラークの銅像が立っています。彼が日本を去る時に言ったという「少年よ、大志を抱け」という言葉は、私たちの世代ならば誰でも知っている有名な言葉でした。

 内村鑑三は、その後アメリカに留学します。お金がなかったので、あまり皆がやりたがらない精神病院の病棟で働くなどして、お金を稼ぎながら勉強を続けました。留学後は日本に帰り、キリスト教の布教に努めました。
 この人の特徴は無教会主義というもので、どの教会にも属さない。キリスト教にはローマ=カトリック教会をはじめとして、プロテスタントの各宗派や正教会など、多くの宗派がありました。しかし、彼はどの教会に属さずに、ただ一人聖書を持って神と向き合う。そういう信仰を選びました。そのあり方は、当時の日本人の若者たちに大きな影響を与えました。
 著作『余は如何にして基督信徒となりし乎』『代表的日本人』が有名です。
 彼の思想ですが「ふたつのJ」という単語が入試にはよく出てきます。彼の伝記を読んでもそれほどこのことは強調されている気はしませんが。JとはジャパンのJ、もう一つはJesus Christ、つまりイエス・キリストを表すJです。明治の人なのでキリスト教の信仰を持ちながらも、日本という国の発展はかれの大きな関心を占めていたのです。イエスと日本に生涯を捧げる、ということを考えていたのでした。彼の言葉「日本のため、世界のため、キリストのため、すべては神のために」。
 また彼は「武士道に接木されたるキリスト教」を理想と考えていました。内村鑑三も元は武士の家出身でした。明治になって、かつての武士・侍たちは、どういう倫理観を持って生きていったらいいかわからない。そういう士族の心情に、キリスト教の倫理観がうまくはまったのだと思います。多分、新渡戸稲造も同じような考え方で『武士道』という本を書いているのだと思います。当時のキリスト教の信者になった人たちの典型的な考え方だと思います。
 彼の経歴において、不敬事件は非常に有名です。1891年の出来事です。内村鑑三はアメリカから帰ってから、キリスト教の活動もするのですが、第一高等学校という、今の東京大学教養部の教授になりました。その時に、教育勅語が発布されて、学校の講堂で校長が教育勅語を読み上げ、壇上に掲げられた明治天皇自らが署名した教育勅語に、教授や講師が礼拝をするという儀式がありました。
 3番目に壇上に上がった内村鑑三はどうしたらいいか迷った。キリスト教の戒律を厳密に守れば偶像崇拝禁止ですから、教育勅語に敬礼をすることができない。迷った末、敬礼をしなかった。これが大問題となって、内村の行動は厳しい非難にさらされ、結局彼は第一高等学校の職を辞めざるを得なくなりました。これが不敬事件です。ある意味、内村を一躍有名にした事件と言ってもいいでしょう。
 その後はどこにも属さずに、講演会を開いたり、著作物を発表したりするなどして生活していきました。彼の周りには常に若者たちが集まっていたようです。
 もう一つ、内村はキリスト教信仰の立場から絶対平和主義を主張し非戦論を展開しました。日本中が戦争で沸き立っていた日露戦争の時にも、戦争に反対していました。これは非常に勇気のいることだったと思います。

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