見出し画像

時間切れ!倫理 153 哲学 西田幾多郎

 明治の半ばも過ぎれば、ヨーロッパの文化がどんどんと入ってきて、普通に大学でさまざまなことを教える。哲学はヨーロッパで生まれました。そのヨーロッパから入ってきた西洋哲学を、東洋の思想と融合させて、独自の哲学を生み出そうとしたのが西田幾多郎(きたろう)です。
 京都大学で教えていた先生で、『善の研究』を著しました。西田幾多郎の横に鈴木大拙(だいせつ)と書いてありますが、そこに線を引いておいてください。鈴木大拙は教科書に出るか出ないかとい境目の人ですが、有名な仏教・禅の研究者す。禅を紹介する英文の本を書いて、海外でよく読まれた。アメリカではすごく有名な人です。それが逆輸入されて、日本でも多く読まれました。新渡戸稲造の『武士道』に近いような紹介のされ方でしょうか。
 日本語の本もたくさん書いていて、明治・大正時代の禅の研究の、第一人者です。仏門に入って、禅宗のお坊さんにでもならなければ、禅がどのようなものなのか、一般の人には知りようがありませんでしたが、その禅のあり方を一般民衆に紹介した人、と言っていいかもしれません。夏目漱石の小説を読んでいると、主人公が最後に禅寺に行って座禅を組むというものがいくつかあるのですが、こういう設定も鈴木大拙の影響かもしれません。
 その鈴木大拙と西田幾多郎は高校の同級生でした。その後も、二人の間にはずっと交流があります。ですから西田幾多郎は、西欧哲学の研究者なのですが、鈴木大拙を通じて禅や仏教の思想にも深く触れていて、西洋哲学に仏教的な東洋思想を接続した。そして書いた本が『善の研究』です。
 主観と客観を対立的に捉える哲学的立場を批判、と書いてあります。主観と客観とは、後で学習するヨーロッパ近代哲学の基本的な考え方です。ヨーロッパ近代哲学というものは、主観の世界と、自分の外側の世界(外部世界、客観の世界)との、この間の関係をどう考えるかということを大きなテーマとしました。自分が見ているこの世界は、本当に外部の世界をそのまま捉えているのか。主観は、自分から外に出ることができません。そこから、主観と客観の一致問題、というものがでてくる。この問題がずっとテーマのひとつとなっています。
 これは、そもそも主観と客観が、別のものだと考えているから生じる問題です。
 しかし仏教に代表される東洋思想は、主観と客観の問題を乗り越えている、というか、はじめから、その問いを設定していない。
 客観世界そのものが、そもそも空です。私も空、あるいは無。無我の思想というのが仏教の思想ですからね。主観そのものを初めから否定している。そういう思想を西洋哲学に取り込んだ。それが西田幾多郎と考えてくれたらいいと思います。
 受験的なタームとしては、思索や反省以前の「純粋経験」「主客未分」「絶対無」というものがあります。正直に言って私はなんだかよく分かりません。こういう単語が出てくれば西田幾多郎だなと思ってください。
 禅によって無の境地というものは、多分得られる。ピアニストがピアノを弾いて、集中しているときに、自分というものはなくなっている。陶芸家が茶碗をねっている時に、やはり自分・主観というものは消えて、茶碗作りに集中している。それが主客未分という状態なんだろうと思います。そこから全てのものが生まれてくる。そういうことを言っているのではないかなと思います。中途半端な解説ですみません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?