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月面ラジオ { 34: 天文台 }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月で働くことになった月美は、砂漠の僻地に閉じ込められました。

{ 第1章, 前回: 第33章 }


「月美、仕事をしなくていいのかい?」
 粗茶二号がたずねた。

「しないとだめだよ。」
 月美は答えた。
「ただでさえ作業が遅れているのに。」

「ならここで何をしているんだい?」
 粗茶二号は驚いた。

「サボってるんだ。」

「サボっちゃだめだよ。」
 至極まっとうな意見だった。
「ホークショット教授が月美のことを探しているよ?」

「知ってる。」

声に後ろめたさが混じっていることに自分でも気づいた。
ホークショットに見つからないよう隠れている最中だったからだ。

「返事をしなくていいの?」
 と、粗茶二号。
「仕事の話だと思うよ。」

「勘弁してくれよ。徹夜あけにお説教だなんてまっぴらだ。」

展望室のベンチで月美はふてくされた。
そして、また外を眺めた。

窓の向こう、大地の彼方に月面都市が見えた。
地下洞窟の竪穴から飛び出たあの巨大なドームこそが、我らが月面都市の屋根だ。
太陽から飛び出て、何にも遮ぎられずたどり着いたむき出しの光が、鋼鉄のドームを焼いていた。

月面都市は目に見える距離にあった。
行こうと思えば歩いて行ける距離だ。
でもラボからあそこまでたどり着くことはできない。
月美には、宇宙空間を乗り越える手段がないからだ。

「なんとかして、あそこに戻らなくちゃ……」

そのときだった。
廊下の向こうから扉の開く音が聞こえた。

「まずい! 教授だ!」

月美はおどろいて叫びそうになった。
口を抑えて頭を下げた。
いや、頭を下げただけじゃ見つかってしまう。
あわててベンチの下にもぐった。

「私を探しにきたんだ! 見つかったら殺される!」

「大げさだね。月美をとって食おうとしてるわけじゃないのに。」

粗茶二号が月美の傍らまで降りてきた。

「食われなくたって、死ぬことに変わりないよ。」
 月美は床に突っ伏したまま小声で言った。
「ここのところ失敗続きだ。そろそろ宇宙空間に放り出す頃じゃないかな。」

「放り出すって、何をだい?」

「私をさ。きっと宇宙に捨てて処分する気なんだ。」

「それは怖いね。」
 粗茶二号は震えながら言った。
「とりあえず隠れていよう。教授が近づいたら教えてあげるよ。」

「ありがとう。たすかるよ。でもそろそろ黙ってくれ。しゃべってると見つかっちゃうよ。」

精一杯声を殺して月美はささやいた。

「声を出しているのは月美だけだよ。いまの僕の声は月美以外に聞こえないし、姿だって見え……ない……まずい! 来た! 月美、ふせて!」

これ以上どうやって伏せるんだと思いながらも、月美は頭を抱え、精一杯地面とくっついた。
塹壕の下に避難している気分だった。

暗い廊下に足音が響いた。
だんたんと近づいてくる。
いや、もうすぐそこまで来ていた。
コツコツと床を踏む音に身震いしながら「早く通りすぎてくれ」と月美は懇願した。

けれど足音は、展望室でピタリとやんでしまった。
ホークショットがベンチのそばで立ち止まったのだ。
まさか見つかったのでは? 
月美の心臓が早鐘をうった。

いや、まだ見つかっていないはずだ。
廊下とベンチとの間には段差がある。
ベンチの下は死角になっているし、ここまで降りてこない限り月美の姿は見えないはずだ。

だけど、だったらなぜホークショットは立ち止まっているのか? 
そこにいるのは、ほんとにホークショットなのか? 
顔をあげて確かめたいという衝動にかられながらも、万が一にも見つかるわけにはいかないと思い、月美は必死にこらえた。

なにも起こらなかった。
あたりはシンとしたままだ。
動くものはなく、音を出すものもなく、空気すら固まっているような気がした。

静かなのがむしろ恐かった。
月美の肩に長い指が伸びてくるのではと、そんな風に想像してしまうからだ。
叫びだしてこの場から走りさりたい。
そんな思いが湧いてくる。

何分たっただろうか、やがてコツコツという音がまた聞こえだした。
こっちに来てるわけではなさそうだ。
足音は、来た時とは反対側のほうへと去っていく。

段々と足音が小さくなっていき、間もなくして聞こえなくなった。
念のためそれからさらに一分ほど待って、月美はベンチの下から頭をあげた。
恐る恐るあたりを見回し、あの忌まわしい女がいないことを確かめた。

どうやら行ってしまったようだ。
なんとか乗り切ったわけだ。
月美はホッとひと息つき、胸をなでおろしてベンチに座った。
粗茶二号も安堵のため息をついた。

「でも本当にどうするつもりだい、月美? いつまでもこんなところでコソコソ隠れているわけにはいかないよ。」

粗茶二号は言った。
三十台後半の女が地べたに張り付いて逃げ惑うところを目撃したせいか、心底心配していた。

「まったくだ。早くラボから脱出しないとな。」

でも、脱出するにはどうすればいいんだろう? 
月美はこの数ヶ月間、再三考えたことをいま一度考えてみた。

現状はこうだ。
月面都市へ戻るにはマグレブに乗るしかない。
だけど、月美だけじゃマグレブを動かせない。
いくら自動走行車でも、宇宙で活動するための特別な免許を持っていなければ、ひとりで宇宙空間に出ることができないのだ。

免許の取得はたいした問題じゃない。
なんだかんだで月の滞在期間も長くなったし、月面活動補助員の二級免許くらいなら仮想空間の模擬演習をこなすだけで取得できる。

問題は、月面マグレブの手配をしなければならないことだった。
手配するにしても施設責任者の許可が必要なのだけど、なんとなればその責任者こそがホークショットである。
ホークショットから逃れるためにホークショットの許可がいるというこのジレンマは、さしあたり月美の悩みの種だった。

「困った……本当に困った。」

仕事を放り出して逃げると聞いたときのホークショットの顔なんて想像したくないし、月美を吊るしあげるための道具を選ぶ様も見たくはなかった。
せめて話のわかる人間がひとりでもいれば心強いのだけど……

「あ……」

その時だった。
稲妻のような衝撃とともに、月美の脳内にすばらしい天啓が駆けめぐった。
そういえば、あいつがいたじゃないか、と。

アルジャーノンだ。
すっかりわすれてたけど、月美の上司はひとりだけじゃなかった。
あいつに頼めば、ここから出してもらえるかもしれない。

「考えてみれば不思議だよな? あいつ社長だってのに、いちども会社に来てないじゃないか。」

なんとか連絡をとれまいか、と月美は尋ねた。

「うーん……知ってる人に聞いたほうがいいんじゃいかな?」
 粗茶二号は答えた。

「知ってる人って?」

「そりゃホークショット教授でしょ。」

「むりだ。」

「ならマニーやハッパリアスに聞くしかないと思うよ。」

「だよな。善は急げだよな?」

「ここでぼんやりしていても仕方ないしね。」

そうと決まればまずはマニーだ。
ホークショットに見つからないように移動して、マニーのところまで行かなくちゃならない。
今日は仕事場で見かけていないから、あいつもどこかお気に入りの場所でサボっているのだろう。

そんな風に月美はあたりをつけた。

暗い部屋の中で一条の光が走り、スクリーンに映画が映っていた。
スクリーンの中では、男が研究所のような真っ白い施設をさまよっていた。
施設には、男のほかに人はいなかった。

月美は月面ラボの映写室へとやってきた。
かつて仕事の打ち合わせで使っていた部屋らしいけど、仮想空間隆盛のこのご時世では、お払い箱の一室だ。
いまでは、マニーが映画館がわりに使っている。

座席の真ん中にマニーの姿を見つけた。
暗い一室にあっても、彼女の金髪は夜空の月のように浮かびあがっていた。

「マニー。」

うしろから声をかけると、ヒッという感じの短い悲鳴がきこえ、マニーの姿が座席の下へと消えた。
しばらく待っても返事がなかったので、月美は座席のほうへ回りこんだ。
そこには、五体投地の姿勢で床に這いつくばっているマニーがいた。

「マニー、私だよ。」

声をかけると、マニーが恐る恐る顔をあげた。

「脅かすなよ。ホークショットかと思った。」
 マニーは席に座りながら言った。

「安心しろ。教授はいま私を探してる最中だ。」

「ならさっさと出てってくれ。私をまきこむな。」

「古い映画だね。」
 月美は気にせずマニーのとなりに座った。
「なんの映画だ?」

「月に囚われた男。」

「どうしてそんなのみてるんだ?」
 月美は驚いて言った。
「気が滅入るだけじゃないか。」

「おもしろい映画だよ。ここ以外で鑑賞すればね。で、いったいなんのよう?」

「アルジャーノンに会いたい。」

「だれそれ?」
 マニーはスクリーンを見つめたまま言った。

「アルジャーノンだよ! うちの社長の! あいつの連絡先、知らないか?」

「ああ、アルジャーノンね。」
 マニーは言った。
「悪いけど、心当たりはないよ。」

「なんで社長を忘れるんだよ?」

「なんでと言われても、入社したときに会ったきりだからなぁ。あんただってほとんど話したことないはずだ。どうせ今の今まで忘れてたんだろ?」

「するどいね。」
 月美は頭をかいた。

「急にどうしたんだ?」

「ラボから脱出したい。」

「は、なんで?」
 今度はマニーがおどろく番だった。
「脱出? ここはこんなにいいところなのに?」

「いいところ……」

自分でも意外なことに、月美はマニーの意見を否定する気にならなかった。
たしかに囚われの身ではあるけれど、月美はこの月面ラボが存外心地よかった。

たとえばこの映写室だ。
月美、マニー、ハッパリアスの三人は、お気に入りの映画とポップコーンとコーラを持ち込んで、いつもここで鑑賞していた。
マニーはサイエンス・フィクション、ハッパリアスはアクションやサスペンス、月美はコメディや恋愛の映画といった具合に。
こどものころ好きだった映画を見て、終わったら感想を言い合うのはとても楽しい。

月面ラボには運動場もあった。
そこは建物を周遊するコースになっていて、砂漠を眺めながら、屋内用のロードバイクで何十周もサイクリングできる。
月の荒野を見て、こどもの頃に住んでいた場所もこんな感じだったと、ハッパリアスはよく故郷アラスカの話をする。

仕事以外では、月美はカフェテリアのキッチンで過ごすことが多く、料理が得意になった。
ラボの菜園で栽培しているパクチーやハーブをマニーがくれるので、食料配給日には特にタイ料理を作るようになった。
みんなおいしいとおいしいと食べてくれるので、月美はとくいになってたくさん作った。
芽衣もこんな気持で月美に料理を作ってくれていたのだろうかと最近よく考える。

居住空間も快適だ。
ベッドとクローゼットだけの狭い個室ではあるものの、各部屋にはシャワーと洗面台が完備されている。
宇宙空間にせり出すテラスさえある。
リクライニングチェアに座りながら月の砂漠で居眠りをするだなんて、なかなかできない体験だろう。

とにかく広い場所だった。
世界の果ての施設とは思えないくらい色々な設備がここにある。
月美の知らない場所もまだまだ多く、マニーとハッパリアスが「開かずの間」と呼んでいる部屋さえあった。

仕事がたいへんなのは間違いないし、ホークショットの恐怖政治のもと自由は少ないけど、月面ラボで過ごすのは楽しいと日に日に思うようになっていった。
それはとても不思議なことだった。

もちろん月美は月面都市に行きたい。
月美には「幼馴染との再会」という純然たる目的があるからだ。
でもここで過ごすうちに、それも何だかんだでどうでも良くなっていき、いつのまにか三ヶ月という歳月が経っていた。

自分のいたい場所はここじゃない。
月美はそう思っている。
思っているというのに……

スクリーンの中では、「どうしてここから出れないんだ」と男が泣いていた。


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