{ 4: シャン家の朝(2) }
七月ともなれば、たとえ朝でも東京は暑い。スポンジが水を吸収するように、ビルや地面が大量の熱をたくわえるものだから、道行く人たちは窯の中を歩いている気分だった。昨日の昼に溜まった熱は、夜のうちに放出しきれず、まだ足下のアスファルトに残っているに違いない。春樹と秋人は、都市の熱波から逃げるように地下鉄の階段を下り、奥へ奥へと進んでいった。
「それでさ、春樹……」
プラットホームに着くと、秋人が尋ねた。
「どんな夢なのか、まだ教えてくれないのか?」
「何度も言ってるだろ?」
春樹はうんざりしながらプラスチックのベンチに座った。
「秋人には教えない。本当は誰にも教えたくないんだ。医者にだって……」
「なんでだよ?」
秋人は、となりに座り春樹の肩に手を置いた。
「教えない理由くらい教えてくれてもいいだろう?」
「しつこいな!」
春樹はその手を払いのけた。
あの夢の何がイヤかと言えば(もちろん何から何までイヤな夢なんだけど)、家族ともども殺されてしまうところだ。弟が泣きながら死ぬ夢を見て苦しんでいるだなんて、秋人には知られたくなかった。夢の内容を教えずに、このことをどうやって伝えろというのだ?
もちろん「前世の夢」に出てきた弟は秋人じゃない。夢の中の弟は、秋人よりもずっと幼かった。そもそも、あの夢に出てくる青年だって春樹ではない。でも青年が自身の弟を思う気持ちは、春樹がいま胸に抱いている感情と同じなのだ。
「どうして夢のことを気にするんだ?」
「気にするに決まってるだろ?」
今度は秋人が怒って声をあげる番だった。
「まい……あさっ! いいか? まい……あさっ、こちとら呻き声や叫び声で目をさますんだ! やれ『やめてくれぇ』だの、やれ『助けてくれぇ』だの……兄貴がタチの悪い目覚まし時計になった俺の身にもなれよ? 春樹が悪夢を見た回数、教えてやろうか? 今朝でなんと三六五回だ!」
「数えてたのか?」
春樹はおどろいた。
「そんなわけないだろう」
秋人は言った。
「春樹が最初に悲鳴をあげて、今日で一年経ったってことだ。いい加減なんとかしなくちゃな。『赤いもの恐怖症』だって、 その夢に関係してるんだろ?」
なんとかできるなら、とっくになんとかしている。病気やケガで苦しんでいる人たちが口をそろえて言うことだ。
だけど秋人の言う通りでもあった。今日で一年と聞いて、春樹は少なからずショックを受けた。もうそんなに経つのか、と。早くなんとかしなければ、僕は死ぬまであの夢に苦しむ気がする。なんなら僕が死んで生まれ変わっても、あの夢に苦しむだろう。それだけはゴメンだ。
「なあ、夢の内容はいいけどさ、それを見るようになった原因に心当たりはないか?」
秋人は言った。
顔をあげるとあたりは騒がしく、さっきまで空いていたはずのプラットホームが混み始めていた。そろそろ次の電車が来るようだ。隣の駅を出発したころだろうか、トンネルの奥から車両のうなる音が聞こえた。
「原因なんてないよ」
春樹は言った。
「ほんとうに?」
「ない」
焼いて処刑される夢を毎晩見る原因? そんなものがあるなら、ぜひとも教えていただきたい!
「例えばなんだけどさ……」
秋人は言った。
「夢を見るようになる前に、何か特別なことをしたんじゃないか? それか、特別なものを見たか、だ」
「特別なこと……?」
一年前のいまごろなら、専門学校で「電気基礎」を習い始めていた。電子回路を組み立てて、電流の大きさを計測する実習をやったのだけど、春樹はまちがえてショートさせ、火花を上げたことがある。
「計測器も壊しちゃって、先生にすごく怒られたなぁ」
「そういうことじゃない」
秋人はイライラしていた。
「ならどういうことだ? 考えがあるんだろ? はっきり言えよ」
「ちょうど一年前の今日、春樹は企業見学会に行っただろ?」
「見学会? あぁ、そういえば! 確かに行ったよ……カンパニーに」
東京でカンパニーと言えば「アジア・エネルギー・カンパニー」である。東京どころかアジア一帯のエネルギーをまかなう一大電需産業で、小学校に入りたての子どもだってカンパニーを知っている。ちょうど一年前、春樹は学校の行事でそこへ社会科見学に行ったのだ。
「でも、ただの企業見学だった」
春樹は言った。
「従業員に案内してもらって、オフィスを見て回るだけだ。オフィスといっても、裏手のボイラー室とか、空調の制御室とかだけどね。うちは専門校だから、将来の就職先の参考にってことさ」
「そこでなにか見つけたんじゃないか?」
焼かれる人間を? と、言いかけたところで、春樹はあわてて口を閉じた。
「おかしなモノはなかったさ」
たとえアジアで一番大きな企業であろうと、ボイラー室はボイラー室でしかない。そりゃ、従業員が外国人滞在許可証の更新に毎度苦労しているような台湾料理屋が出店し、虫歯予防キャンペーンのポスターだらけの歯医者が営業している雑居ビルと比べれば、カンパニーの施設はすごく充実しているかもしれないが、ボイラー室にあるのはやはりボイラーだ。そこに焼死体を連想するような悲劇的なモノはなかった。
「じつは今日……」
秋人は、ひざのカバンの上でかたく結んでいた両手をほどいた。
「俺の高校でも企業見学会があるんだ」
「どこに行くんだ?」
まさか、と思いながらも春樹は尋ねた。
「カンパニーさ」
秋人は答えた。
「偶然だろ?」
「秋人たちもボイラー室見学かい?」
「ちがう。バックオフィスとか、発電の研究施設とか、そういうところだ。ビジネスの最前線。将来の就職先の参考にってわけさ」
「さすがエリート校だな」
「そういう話がしたいんじゃない」
秋人は春樹を遮って言った。
「俺たちといっしょに来ないか?」
「はい?」
春樹は変な声をあげてしまった。
「僕がカンパニーに? おまえと一緒にか?」
「理由は、まぁ……わかるだろ?」
「いや、まったくだ。ちゃんと説明してくれ」
「春樹がそうなった理由は、カンパニーにあったんじゃないかってことさ。そこで何か特別なことがあったんだ」
「はぁ……」
「もしこの考えが正しいなら、もう一度カンパニーに行けば、何か見つかるんじゃないか? 夢から解放されるための手がかりみたいなものが……」
「本気か?」
「まぁね」
そうは言いつつも、秋人自身、自分の説を信じきれていないようだった。秋人の声はいつもより小さかったし、この話をしていた時は、線路側の壁にある耳鼻科の看板(三番出口より当院まで歩いてたったの徒歩五分!)の上で視線が泳いでいた。
「でもさ、秋人……」
春樹は言った。
「毎朝、小学生みたいにこうやって兄弟いっしょに登校しているせいで忘れちゃいそうになるけどさ、僕たち別々の学校に通ってるんだ。僕は職業訓練のための専門校、秋人は進学のための高校。まぎれこめるわけないだろ?」
「ひとりくらい部外者がいたってバレないさ。それこそ小学生の遠足ってわけじゃないし、引率の先生はいない。生徒たちはいくつかの班にわかれて、それぞれ見学先の企業を選ぶ。俺たちの班は五人で、天下のカンパニーを見学しにいくわけだ」
「五人が六人になっちゃだめだろ?」
「手は打ってある」
そう言うと、秋人はカバンに手を突っ込んで中を探り始めた。
そのまま中を覗きこみながら続けた。
「じつは班のメンバーが一人、その……なんと言ったらいんだろう? 途中からどこか他の場所に行く予定なんだ」
「要するにバックレるってことだな?」
春樹は口をはさんだ。
「せっかく昼間から新宿に行くんだ。健全な高校生なら、企業見学よりも遊びに行くってもんだろ?」
なおもカバンを探りながら、秋人はこちらにニヤリと目配せをした。
「僕がそいつと入れ替わるってことか? せっかくボイラー室を拝めるのに、サボるだなんて……」
「ボイラー室は見ない!」
秋人は言った。
「我が兄ながらどうしてそんなものに夢中なのか理解に苦しむね。ボイラーだの、空調設備だの、配電盤だの……ああ、くそっ! いったい、どこにいった?」
「さっきから何を探してるんだ?」
春樹は、なおもカバンをかき回す秋人にたずねた。
「ネクタイだよ、ネクタイ……あぁ、あった、見つかった!」
カバンの中から臙脂色のネクタイをつかみ出すと、秋人はそれを春樹の目の前に差しだした。秋人が身につけているものとまったく同じもので、制服のネクタイだった。
「少し赤っぽいけど、これくらいなら大丈夫だろう?」
秋人は言った。
「ネクタイがおそろいなら、おなじ学校の生徒だって思うだろ。このクソ暑い中でジャケットを着てくるヤツもいないしな」
春樹は、目の前に垂れ下がるネクタイの先っぽを見ながら唖然とした。
「十二時になったら学校を抜け出せ。駅は混んでいるから、直接カンパニーのロビーで待ち合わせよう。ネクタイは先に替えておけよ」
春樹はまだ行くと言っていないのに、秋人は熱心に段取りを説明していた。
「班の連中には話をつけてあるから心配するな。合流したらサクッとカンパニーに突撃だ……ん? ほら、どうした、受け取れよ?」
秋人は、春樹の顔にぶつかるまでネクタイを突きつけた。
「カンパニーにうまく入れたとしても……」
春樹は、鼻先をこするネクタイを払いのけて言った。
「父さんに出くわしたらどうするんだ?」
「あんなに大きな会社で知り合いとすれ違うことなんて早々ない」
秋人は言い切った。
「父さんは、研究開発部の副部長だ。朝から晩まで仕事で酢漬けになっているのに、学生の企業見学に顔をだすわけがない。春樹のときだって、いなかっただろ?」
「そりゃ僕のときはいなかったけどさ……」
春樹は言った。
「でも、秋人なら話はべつだ。父さんは秋人に期待しているからね。僕なんかよりずっと……」
「それでも来ない!」
秋人は声を張った。
「ほんとうに大丈夫かなぁ……?」
「いいからネクタイを取れ。夢から解放されるには、何か行動を起こさなくちゃ」
春樹は迷った。あたりまえだ。午前中の授業が終わったら学校をぬけ出し、ほかの高校の生徒と入れ替わってカンパニーに侵入する。秋人が言っているのはつまりそういうことだ。もしバレたら大目玉だし、何よりもあの厳格な父にバレるのは心底おそろしい(父は、子供のころ僕と秋人がちょっと悪ふざけするだけで、生意気なことをしていると、髪の毛をすべて剃り落として寺に出家させるぞ、と脅していた)。それに、そんな危険を冒したところで、夢から解放されるのだろうか?
一方で、「何か行動を起こさなくちゃ」という秋人の言葉は春樹の心を打った。そのとおりだと思う。あんな夢、もう二度と見たくなかった。たとえどんなに不確かな試みでも、僕たちは何かをしなくちゃならないのだ。
気がつけば、春樹は秋人のネクタイを握りしめていた。いまの春樹に手段を選んでいる余裕なんてなかった。
「そうこなくっちゃ」
と、秋人は言った。
そのとき春樹の視界を何かがよぎった。おどろいて顔をあげると、線路の上に赤い髪の女の人が立っていた。彼女は、ほんのつかのま春樹を見ていたけれど、目が合った瞬間に姿を消してしまった。プラットホームの下に潜ったわけじゃない。とうてい人と思えない速度で、線路の上を走っていったのだ。
「どうしたんだ、春樹?」
ネクタイをカバンにしまおうとしたまま春樹が固まっていたので秋人はたずねた。
「さっきからぼんやりして……」
春樹は、地下鉄の線路を注視していた。
「あそこに赤い人がいた」
春樹は言った。
「だ、誰もいないぞ?」
秋人は眉を潜め、線路と春樹の顔を交互に見た。
「なにを言っているんだ? もう地下鉄が来てるんだぞ……」
「ひ、人がいたんだ……ほんとうだ!」
「いたら今ごろもっと大騒ぎだ」
秋人は言った。
「カンベンしてくれよ……赤色恐怖症だけじゃなくて、白昼夢まで見だしたら、本当にどうしようもなくなるぜ?」
「見まちがいじゃない! だって、目が合ったんだから……」
女の人だった。線路から頭を出して、春樹を見ていた。ほんの一瞬だったけど、ぜったいに目が合った。でも、すぐに消えてしまった……春樹以外、彼女の姿を捉えた人もいなかった。
あの時の彼女は、友人をふいに見かけたから立ち止まった風だった。でも春樹は彼女を知らない。あんな人、一度でも見たら忘れようがない。なんたって、髪の毛は赤く、まるで火のようだった。目だって同じように赤くて……
春樹は怖くなって身震いした。そして秋人の言った通り、見間違いだと思い直した。線路の上に女の人がいた。時と場合によっては、そういうこともあるだろう。でも、髪の毛ならまだしも、人の目が赤いなんてことはありえるのだろうか? あの女の人は、確かに赤い目をしていた。毎夜、夢で見るあの赤だ。赤い目の人間なんているわけない。だから、あれは見まちがいだったのだ……
地下鉄が、プラットフォームにゆっくりと侵入してきた。まるで、何事もなかったかのように。まるで、赤い目と髪の女などいなかったかのように……
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