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月面ラジオ {53 : 彦丸号 }

あらすじ1:月美の想い人・青野彦丸は、月で宇宙船を作っている。
あらすじ2:月美の姪の芽衣は、月面大学の大学生だ。月と地球との間で失踪した宇宙船の事後原因を、大学の同級生たちと調査している。

{ 第1章, 前回: 第52章 }


お母さんが木土往還宇宙船のクルーに反対した。「外惑星に行きたい」という芽衣にきっぱりとダメだと言ったのだ。おどろいたというよりも、芽衣は失望して言葉がなかった。

「出発したら向こう十年会えなくなるのよ?」
 お母さんは続けた。
「それでなくても、もう一年も会っていないのに。クルーに応募したことをどうして私に黙っていたの? 月美から聞いて初めて知ったのよ?」

「お母さんだってずっと海外で働いていた。」
 芽衣は言い返した。
「そのことを私に相談した?」

左分けにした前髪の下から大きな目が覗いた。直立不動のまま西大寺陽子が私を見つめていた。体はゆらゆらと揺れているし、パッと表情が変化することもあるけれど、それでも口を開くことはない。黙り続ける母に、芽衣はイライラした。人と会話をしている気がしない。まるで下手なオートマタを相手にしているようだった。

三秒だ……この三秒のせいだと芽衣は思った。月と地球の距離で会話しようと思ったら、自分が喋り終わって相手が返事をするまで三秒待たなければならない。その間、何も言わない相手の映像をただ眺めさせられる。この長い長い三秒は、芽衣をどこまでもやるせなくさせた。大切な話をしている時は、なおさらもどかしい。

「それはそうだけど……」
 やっとのことでお母さんが喋りだした。
「でもちゃんと家には帰ってきていたでしょ?」

「私はこどものころから月に行きたいと言っていたし、太陽系の惑星をすべて巡るんだって言っていた。私が黙っていたんじゃなくて、お母さんが聞いていなかっただけよ。」

映像を消していれば、こんなふうにイライラすることもなかった。でも今から消すくらいなら、通信そのものを切ってしまおう。大切な話だとわかってはいるけれど、お母さんと話し込んでいるヒマはなかった。この後、芽衣はとても大切な用事をひかえている。

「お母さんのことは尊敬しているし、感謝もしている。でも子どものころから私のそばにいて、私の話を笑わずに聞いてくれて、『お前ならできる』って言ってくれたのは月美ちゃんなの。だからお母さんじゃなくて、月美ちゃんに言ったのよ。」

芽衣は通信を切った。お母さんの姿が消えた。お母さんからすれば、私の姿が突然消えただろう。後悔した。お母さんを傷つけたと、そう思ったからだ。海外転勤の多いお母さんは、月美ちゃんに私をあずけることが後ろめたかった。それがわかっていて、私はあえて月美ちゃんを引き合いにしたのだ。

「ふぅ……」

芽衣はため息をつき、また窓を見た。窓の外には月の砂漠があった。いまは真昼の時間帯で、気温はおよそ百度。むき出しの陽光に晒された砂漠は、灼熱を超えている。見た目はいかにも冷涼な大地だというのに、フライパンを置くだけで卵を焼くことができるのだ。そんな砂漠のせいで、月の港を出発する船たちは、お尻を真っ赤に燃やしながら飛んでいくようだった。

芽衣は、ほの暗い部屋にいた。灰色の壁を照明がわずかに照らしているだけで、陽光の差しこむ窓だけが異常に明るく、白かった。

ここは、黒革のソファーが並ぶ空港ラウンジだ。それも、航空会社の選んだ会員だけが利用できる高級なヤツだ。窓からは月の砂漠を見渡せ、部屋の中央にガラスのバー・カウンターがあって、たとえブーツを履いていても、絨毯の感触が足の裏まで届いてきそうだ。芽衣がこれまでお目にかかったことのない種類のウィスキーやブランデーがバーの棚に並んでいた。メニュー・ボードはないけれど、食事も飲み物もなんだって頼めるはずだ。いきなりクロケッタを注文したとしても、揚げたてをテーブルまで運んできてくれるだろう。それも香味野菜の小粋なピクルスを添えて。

ピクルスに用はないけれど、芽衣は自分を勇気づけて、テーブルに戻らなければならなかった。さっきまで座っていたテーブルに戻るだけだ。でも、それがひどく億劫で、なかなか一歩を踏み出せないでいた。普段は、自分が何を着ているかなんてまったく気にしていないのに、古いチェックのシャツにジーンズでこの場を闊歩するのは、さすがの芽衣も気が引けた。なんとなれば、シルクのシャツよりもカジュアルな服を着ている人はこの場にいなかった。ウェイターもきちんとネクタイをしていた。もちろん人間のウェイターだ。このラウンジでは、電脳秘書が接客をするなんてもってのほかなのだ。

注目を浴びずに……つまり、ソファーに腰掛けている人たち(ひと目で企業の重役や弁護士だとわかる)の視線を浴びずに、できるだけ隅っこにいたいというのが芽衣の本音だった。なのに、ラウンジを横切って、ど真ん中にあるソファーにひとりで座らないといけないだなんて。いったいどうしてあんな目立つ場所に案内されたのだろう。お母さんの履いていたフェラガモのパンプスとはいかないまでも、せめてスラックスかボタンダウンのシャツくらい着てくればよかったと思う。まぁ、冷静に思い返せば、芽衣はどれも持っていないのだけど。

まさか待ち合わせの場所がこんなところだったなんて……出発ロビーの隣にある待合室だと聞いていたけれど、要人のためのラウンジだとは思わなかった。もちろん芽衣はただの学生であって要人じゃない。今日は招待を受けただけなのだ。芽衣を招待した本物の要人は、これから来る。

芽衣がソファーに座って固まっていると、青野彦丸がやってきた。

芽衣だけがくたびれた格好だと思っていたけど、実際はそうじゃなかった。青野さんも随分くたびれたスーツでやってきたので、自分が奇麗になったわけでもないのに芽衣はホッとした。青野さんが着席すると、ウェイターがふたり分のコーヒーとチョコレートを置いていった。ラウンジに着いてから青野さんが注文した様子はなかったので、芽衣は首をかしげた。

「ここに来たときは、いつもこれを持ってきてもらうようにしているんだ。」
 青野さんが言った。
「すぐに出発することが多いから、注文の手間を省いているのさ。君もコーヒーで大丈夫だったかな?」

おどろいたことが三つあった。

ひとつ目は、いつもここに来ている人がいるということだ。もちろんそういう人がいるのは当然のことだけど、頻繁に宇宙へ行き来して、これほどのラウンジと馴染みとなるような人はやっぱり珍しい。少なくとも芽衣の知り合いにはいない。

ふたつ目は、世界で一番忙しい人が芽衣と会ってくれたことだ。あの青野彦丸が、学生のために時間を割いてくれるのは奇跡に近い。往還船の現場へ行く直前の十分間だけだとしても、だ。

そしてこれが一番おどろいたことだけど、青野さんは優しそうな人だった。お父さんよりも優しそうな人がやってきたので、この人が本当に月の狂人・青野彦丸なのかと疑ったほどだ。

「ありがとうございます。」
 芽衣は言った。
「まさかお時間をいただけるだなんて。青野さんは、インタビューを受けたことがないと伺っていましたから。」

「まぁね。普段はだれが相手でも断るようにしているんだ。でも君は子安の紹介だったから。それに……」

「それに?」

「君が月美の姪だと聞いた。それで興味が湧いたわけじゃないけど、なんとなく話してみたいとも思った。インタビューを受けた理由はそれだけで、率直に言えば、単なる気まぐれなんだ。」

「会いたいですか?」
 思い切って芽衣はたずねてみた。
「月美が月にいることはご存知ですよね。」

「その質問に答えてもいいけど、それが本当に君の聞きたいことなのかな?」
 青野さんは言った。
「僕はあと十三分で出発しなくちゃならない。たとえ話の途中でもね。いま時間に追われているのは僕でなく、芽衣、君のほうじゃないか?」

「そうですね……失礼しました。」

そのとおりだった。月美ちゃんのために、もしかしたら何かできることがあるかもと思ったけど、その「何か」を探っているヒマはなかった。青野さんとどうしても話しておきたいことがある。芽衣は本題に入った。それも可能な限り、率直に。

「宇宙船が疾走した真相を突き止めました。いまだ行方不明のルナスケープ三〇七型機についてですが……」

「待った。」

青野さんが手を前に出して遮った。突然のことで芽衣は面食らった。

「いま、僕の船の機長から連絡があった。空港の都合で予定より早く出発することになった。中断してもらってもいいかな?」

「は……話を聞かないつもりですか?」

思わず口に出てしまい、芽衣はしまったと思った。都合の悪い話を避けたい青野さんのでっち上げだと思ったけど、そう決めつけるのは早計すぎた。船の出発時刻がずれることなど空港ではよくあることなのに。ここで青野さんに不愉快な思いをさせようものなら、話す機会は二度とないかもしれない。

「失礼な言い方だね。」
 と、青野さん。
 驚いたことに、不機嫌な様子はなく、むしろ楽しそうだった。
「話を聞かないとは言ってないよ。良ければ僕の宇宙船で話の続きをしないか? ここでお開きにするのは、さすがに忍びないからね。」

「乗ってもいいんですか?」
 芽衣は声をあげた。
「そんな簡単に宇宙船にのれるんですか?」

「そりゃそうでしょ。」
 青野さんは言った。
「僕が個人的に所有している船で、燃料費も港の使用料も税金も僕が払ってるんだから。誰を乗せようと気兼ねする必要はない。外国に行くってわけでもないんだから気楽に乗ってもらってかまわないよ。」

宇宙船に乗れる? 富豪の所有しているプライベート船に? こんな機会はめったにない。というより、一生に一度もないことだ。まさかこんな幸運が巡ってくるとは。興奮で頭が吹き飛びそうな芽衣に断るという選択肢はなかった。

青野彦丸と向き合って話をするにあたり、芽衣は、となりの部屋の運転席 (せっかくだしコクピットと呼ぼう!) を舐めるように鑑賞したいという欲望をふりきらなければならなかった。宇宙船のコクピットを、しかも実際に運転しているところを拝めるだなんて、めったにないチャンスだというのに。

しかたがなかった。月を出発して木土往還宇宙船に到着するまでたったの十分しかないのだから。彦丸さんと話すのは、このつかの間の渡航が最後だろう。それ以上に話せる機会があるとは思えない。建設中の木土往還宇宙船に芽衣は乗船できないので、現場に到着したら彦丸さんだけが船を降りて、芽衣はそのまま月面港まで送り返してもらう予定だ。だからホントのホントに、この十分間が最初で最後なのだ。

興奮がちょっぴり落ち着いてくると、芽衣は改めて緊張した。コーヒーを飲んだばかりだというのに、もう喉が乾いている自分に気がついた。芽衣にとって、木土往還宇宙船のコンストラクション・マネージャーである青野彦丸はすでに偉人だった。まだ生きているし、自伝を残す気もなさそうだけど、歴史的な偉業をなしとげる人にちがいないのだ。史上最大の宇宙船を……芽衣が生きている間はもう作れないであろう巨大船を建設し、外惑星に到達するという偉業を彼はなしとげる。

ほんとうなら学生の芽衣が面と向かって話せる人じゃない。私を紹介してくれた子安くんには、ありったけの感謝をしなくちゃならない。青野彦丸が子安くんの親友で、月美ちゃんの幼馴染だというのは、まさしく奇跡だった。

ドキドキの芽衣に対して、青野さんは落ち着いた様子で向かいのイスに着席していた。着席といっても、いまは無重力なので、イスのすぐ上でお尻が浮いているというのが正確だ。マグネティック・インソールを靴に仕込めば、磁界の作用で好きな位置に体を固定できるので、勝手に体が飛んでしまう宇宙でも、一応はイスに着席できるのだ。

プライベート船の中は、どちからといえば執務室のようなところだった。ホテルのような一室(例えば、ブランデーを飾る棚とクッション付きのソファーを備え、しかも大きな油絵を飾っている一室)だろうと勝手に想像していたけど、それとはかけ離れた部屋だった。実用性を重視したインテリアで、彦丸さんらしい部屋だなと芽衣は思った。

棚が部屋をかこみ、真ん中には机がおいてあった。棚と机は、まったく同じチョコレート色の木材でできていた。木材とおなじ色の革張りのイスがあり、ネクタイを締めてそこに座れば、誰でも大統領の気分を味わえるくらい立派なものだった。

机の上にはメモ帳と本がおいてあった。棚の両端にランプがあり、部屋全体を暖かな色で照らしていた。空いているイスには、建設現場で着るためのジャンパーが引っかけてあった。裾と袖が無重力でひらひらしていて、ジャンパーは今にも飛んでいきそうだった。

他に何もなかった。余計なものは一切置かないということに時間と執念をついやしたような一室で、無くてもいいものがただ一つ置いてあるとすれば、無地のカーペットくらいだ。仕事のためだけの空間で、いつも宇宙を飛びながら働いているのだと想像できる。同僚を招いて、ここで会議を開くこともあるはずだ。でも今日は会議じゃない。ただの学生である芽衣が、偉人の青野彦丸を相手にし、世界最大の宇宙企業「ルナスケープ」を糾弾する日だ。


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