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月面ラジオ {46 : 青野家の食卓 }

あらすじ:月美の想い人・青野彦丸は、月で宇宙船を作っている。

{ 第1章, 前回: 第45章 }


エリンと出会った時のことを久しぶりに思い出した。
とおい昔のことだ。
そのころの彦丸は身勝手で、他人の事情もかえりみずに迷惑ばかりかけていた。
エリンは、おとなになりきれていなかった自分のことを諭してくれたのだと、今では思うようになった。
あれから二十数年たった今でも、ワガママばかり言って、他人に迷惑をかけながら生きていることを思えば、エリンに対して申し訳ない気持ちになることもたまにはある。

彼女のことを思い出したのは、寝る前に昔のアルバムを引っぱり出したからだろう。
アルバムには、宇宙へ来る前に撮った写真がしまってあった。
アメリカの自然公園の只中に立つ父さんと母さんの写真、廃墟で天体観測の準備をする月美と子安の写真、カスタードをこねているじいさんの写真、フンザの丘でエリンといっしょに撮った写真……

彦丸はベッドから体を起こした。
シーツにくるまりながら懐かしい日々を思い返すのはたまらなく甘美だけど、もう終わりにしなくちゃならない。
またいつもの通り、心と体が砕けるまで働く一日がはじまったのだ。

ベッドから降りるのに、彦丸はその上で三回ほど転がらなければならなかった。
ボクシングの試合ができるくらい大きなベッドなのだ。
でも、それすらちっぽけに思えるほど広い部屋だった。

部屋のすみっこには、むき出しの洗面台と鏡があり、朝起きたらそのまま顔を洗えた。
使用人 (会ったことはないけれど、彦丸が外出している間に部屋を片付けて、ベッドメイキングしてくれる人がいるはずだ) が掃除をしているので、髪の毛一本おちておらず、いつもピカピカだった。
歯ぶらしだって、帰宅すれば新品のものが必ず置いてある。

部屋にクローゼットはなく、スーツ一式をかけたハンガーが帽子掛けにぶら下がっているのみだ。
毎日おなじスーツを着ているものだからすでにくたびれている。
見るに堪えないほどボロボロになったら、いつもどおり誰かが気を利かしてかってに取り替えてくれるだろう。

ひとりで寝るだけなのに、この部屋は広すぎて落ち着かない。
一時は、ここにテントを張って寝泊まりしようと思ったくらいだ。

でもユエが気に入る物件でここより狭いところがなかったので仕方がない。
月という小さな社会でしか生きられないユエが、「せめて住む家くらい広いほうがいい」と言えば、養父の彦丸としては、それに反対することはできなかった。

ベッドから降りると、部屋の照明がひとりでに明るくなった。
彦丸は、照度を強めに設定して、すぐ目を覚ませるようにしていた。
月面都市には太陽がないからそうしている人は多い。
洗面台の前に立つと、鏡の上の照明も自動でついた。

鏡にアナログ式の時計が映った。
壁掛けの時計が反射しているわけではなく、鏡が直接時計を表示していた。
ライム色の光の針が、律儀に一秒ごとに駆動していた。
それをぼんやりながめているうちに、彦丸はある事に気がついた。

七時まであと五分だ。

「しまった!」
 彦丸は叫んだ。
「寝過ごした!」

ダイニングルームでは、ユエが朝食を食べはじめているところだった。

「やっと来た……」
 ユエはムスッとしていた。
「食事の時間をずらしたくないから先にいただいているの。」

「かまわないさ。」
 椅子の背もたれに手を置きながら彦丸は言った。
「遅れて悪かった。」

ユエは必ず七時に朝食をとるし、同席するものにもそれを求める。
たとえ時間を合わせる義務がなくとも、ほんの三分遅れるだけで罪だった。

ユエはすでに身支度をすませていた。
それも完璧なまでに。
シャツの襟にはきちんとアイロンをかけているし、余すところなくツヤが出るまで髪にブラシをかけている。
九分丈の袖にはカフスが光っているし、仕事のときと同じヒールの靴を履いていた。
たとえ彦丸が「いますぐ出かけるぞ」と宣言しても、ユエは口元をぬぐうだけで準備が終わるだろう。

おそるべきは、出かける予定がなくたって、ユエがいつもこれだけの身だしなみでいることだった。
ユエは朝食のひと時のために一時間以上も前から念入りに支度をしているのだ。
このことを知っていれば、朝食の席に三分遅れただけだとしても、いくらか素直に頭を下げられるというものだ。

「アルは?」
 彦丸はたずねた。

「寝坊中。」
 粥をすくう手を止めてユエは言った。
「待ってないでさっさと食べちゃいましょう。せっかく温かい食事を用意してるんだから。」

「まったく……」

彦丸はため息をつきながら椅子をひいた。
久しぶりに三人ともそろったってのになかなかうまくいかないもんだ。

そのとき「もう起きてるよ」という明るい声が聞こえた。
ふりかえると、吹き抜けの上層階の廊下からアルジャーノンが身を乗り出していた。
黒いスウェットのパーカーの紐が彦丸の頭上でプラプラ揺れていた。
アルジャーノンはそのまま手すりを越えてダイニングルームへ飛び降りた。
ぶつからないとはわかっていたけれど、すぐそばに着地したので彦丸はいくらか身を引いた。

「おはよう。」
 アルジャーノンが顔をあげて言った。
「いいにおいだ。キングコング式の朝食は久しぶりだね。」

「おはよう、アル。」
 彦丸は言った。
「正しくはホンコン式の朝食だな。それと、階段を使う習慣をそろそろ身に着けたらどうだ?」

「彦丸だってめんどくさがって飛びおりることはあるだろ?」
 食卓の向こうにまわりこみながらアルジャーノンはこたえた。

「ちがいないね。」
 彦丸は席にすわりながら言った。
「ただ地球に行ったときにそのクセが残っていたらたいへんなことになる。それが心配なんだ。」

ふたりが食卓につくと、陶器の椀でお粥が運ばれてきた。
めずらしい食事ではないけれど、顔の前までひろがる白粥の湯気は拝みたくなるほどありがたいものだった。
食堂で売れ残ったサンドイッチを安いコーヒーで流しこむだけの生活が続いていたせいだろう。

粥をあらかた胃袋に納めると、彦丸はひと息ついて氷の入ったお茶を飲み、黙々と食事を続けるふたりに目をやった。

ユエはお手本のような姿勢で静かに粥をすすっていた。
それから蒸籠で運ばれてきた蒸し餃子を皿に取り、ナイフとフォークで切りわけてたべた。
アルジャーノンは、付け合せのザーサイをすべて粥に放りこんでまぜながらがっついたし、蒸籠に直接フォークをさして餃子を食べていた。
この家で普段から箸を使うのは彦丸だけだった。

ふたりのすぐうしろまで植物の葉がせまっていた。
庭で育てていた熱帯性の観葉植物が、ここ数年で育ちすぎてダイニングルームまで押し寄せているのだ。

部屋と庭のあいだには窓も壁もなかった。
雨も風もなければ、虫もいない月では、内と外とを仕切る必要がない。
だからほんとうに植物はすぐそこに迫っているし、そのうちダイニングが侵食されるのではと誰もが危惧していた。

緑のカーテンを背にしてふたりが並んでいるのを見たのは久しぶりだ。
もしかしたら一年ぶりのことかもしれない。
アルジャーノンはずっと入院していたし、最近は月面ラボで暮らしている。
彦丸だって木土往還宇宙船の建設現場で寝泊まりすることのほうが多い。
この家で毎日寝泊まりしているのはユエだけだった。

「それでユエは合格できそうなの?」

食卓のものをあらかた平らげると、アルジャーノンがお腹をさすりながら尋ねた。
彦丸は内心どきりとしたが、何事もないようにゆっくり箸を置いた。

「僕は、木土往還宇宙船のクルー採用に関わっちゃいないよ。身内が受験しているからね。」

「誰が審査したって落ちるわけない。」
 ユエはすました声で言った。
「月のどこを探したって、私より優秀なエンジニアはいないわ。」

「船が出たらこんな風に二人と会話できなくなっちゃうんだね。」
 アルジャーノンはしんみりとした。

「そうね。十年くらいはお別れでしょう。木星あたりでも通信に三十分以上かかるから会話すらできなくなる。でも、こういう手もあるわ。あなたが船外活動のクルーになればいいのよ。」

「へ?」

「言っている意味がわからないの? あなたも船に乗ればいいじゃない。」

「船外活動は時代遅れだっていつも言っているくせに。」
 アルジャーノンは眉をひそめた。

「そうね。ロボットの全盛時代に人が危険を犯して宇宙にでる必要はない。」

「なんだっていいさ。」
 アルジャーノンは首をふった。
「どっちにしろ外惑星なんて興味ないよ。僕は地球にいく最初のルナリアになるのさ。」

「ばかげているわ。ぺしゃんこになっちゃう。」

「そうならないために色々やっているんだ。」

「作った会社が倒産しちゃ世話ないわ。」

「まだ倒産しちゃいない。債権者たちには待ってもらっている。」

「その債権者は彦丸でしょ? まったく、彦丸も甘いわね。」

「おっと、僕に飛び火してきだぞ。」
 二人のやりとりを見ていた彦丸は言った。

「二年も待って製品が完成しなかったよ。さっさと投資の失敗を認めて倒産させるべきよ。」

「完成したさ。」
 アルジャーノンは食らいついた。
「あとは売りこむだけだ。僕たちのパワードスーツは、船外活動でも大活躍だ。宇宙服のインナースーツの規格だってすべて満たしている。木土往還宇宙船のクルーたちにも使ってほしいくらいだ。あとでユエにも着せてあげるよ。」

「遠慮するわ。」
 南国フルーツのプリンをスプーンですくいながらユエは言った。

朝食のあと、彦丸はふたりに今日の予定をたずねた。

「久しぶりに月面都市で仕事があるんだ。」
 アルジャーノンが答えた。

「撮影? モデルの仕事に復帰するの?」
 ユエは言った。

「まぁ、撮影ということになるかな。」

「どこで撮影するの?」

「内緒さ。あとで見せて二人をおどろかせたいんだ。」

「私は大学の講義を受けるわ。」
 ユエも答えた。
「どの講義を受けるかはあとで決める。それからお昼ごはんを食べて、ルナスケープの仕事をする。」

「つまり家から一歩もでないんだね。」
 アルジャーノンが口をはさんだ。

「すべて通信で済ませられるのに出かける必要ある?」

「僕は衛星軌道に昇って、船の内装を見てくるよ。」
 彦丸は言った。
「もうメインホールの装飾段階に入るからね。」

「わざわざそれだけのために?」

「僕は建築家だ。実際に見なきゃ気がすまないんだよ。映像じゃなく、この眼でね。それに対テロ訓練の打ち合わせと現場検証もあるからね。」

「対テロ訓練?」
 不穏な言葉にユエが反応した。
「そんなのやるの?」

「まぁね。」

「ばからしい。テロリストがいるのは地球の上だけよ。それに、衛星軌道の船を乗っ取れるわけない。他にやることがいっぱいあるってのに時間の無駄ね。」

「確率の高い災害対策をやるだけが訓練じゃないよ。万が一の事態が起こっても、被害を最小限にするためにやるんだ。もちろん君の言うとおり、優先順位ってものはあるけどね。」

「どんな訓練するの?」
 アルジャーノンがたずねた。
「戦うのかい?」

「戦うわけじゃないさ。被害を最小限に留めればいいんだらね。」

「逃げたり隠れたりするんだね。」

「ああそのとおりだ。けどそれだけじゃない。」

「つまり?」

「テロリストが、あの大きな宇宙船を月や地球に落とそうとするかもしれない。そういう時に備えて自爆スイッチを押すオペレーションもある。」

ユエとアルジャーノンが同時に彦丸を見た。

「あの船にそんなものがあるの?」
 ユエは珍しく不安な顔をしていた。
 というよりもおどろいていた。

「なんてね。冗談だよ。」
 彦丸はさもおかしそうに言った。

「それ、私も行こうかな?」
 ユエが言った。
「授業は月軌道上でも受けられるわ。」

彦丸は首をふった。

「家でも大学でもかまわないから、たまに受ける授業くらい集中して受講したらどうだ?」

「仕事も、大学の勉強も、私の裁量と自由の範囲内でやっていることよ。」
 ユエが言った。
「学費だって私が払っている。他人の教育方針に口をださないで。」

「わるかったよ。確かにそのとおりだ。」
 彦丸は言った。
「君が正しい。だからはっきり言わせてもらうよ。僕は仕事で忙しいし、作業にも集中したい。船でやる仕事もないのに、わざわざついてこないでほしい。」

まるで平手で殴られたかのようにユエはショックをうけた。
彦丸はすぐにフォローをいれた。

「今日は日帰りだ。せっかく三人そろったんだから、久しぶりに食事にいかないか? ニューヨークで話題のオランダ料理のレストランが、なんと月に出店したんだ。」

「いいわね。」
 ユエは顔を上げて笑った。
「ハルルに予約を入れさせておくわ。私がいちばんヒマみたいだし。」

「僕はいかないよ。出かけてるからね。」
 アルジャーノンは言った。

「あ、そう。じゃぁふたり分の予約を入れておくわね。」

それでもユエはうれしそうに言った。


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