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{ 15: 血のロビー(3) }

{ 第1話 , 前回: 第14話 }

春樹は頭をかかえた。秋人たちが見つかったのはいいが、まさか人質としてつかまっていただなんて。しかも秋人は気絶していて、父さんに至っては死にかけていた。

犬面の男……イッショウと呼ばれた大男は、秋人の片足をつかみ、体を引きずってレセプション・デスクに向かった。秋人の着ているシャツは、せっかく鈴子すずこさんがアイロンをかけてくれたというのにすでにクシャクシャで、お腹の部分がめくれ上がって下着がのぞいていた。制服のネクタイだって、首吊くびつり用のロープのように剣先けんさきが頭部へとずり上がっている。一方、レセプション・デスクの上で気絶している父さんは、なんとういか、親切でそこにかせてくれたかのように見えた。

「どうする?」
 春樹は自分にたずねた。

決まっている。なんとかして二人をここからがすんだ。特に父さんの奪還だっかんは一刻を争う……だが、どうやって? 敵は文字通り百人力のバケモノで、春樹のかなう相手じゃない。たとえ不意打ち(背後から近づいてブスリだ)をしてもたおせる自信はないし、仮にたおせてもまだ一人が残っている。とはいえ、ここで考えをめぐらせたところで、まともな策をひねり出せるとも思えなかった。不意打ちだって? 一人だけでもテロリストの動きを止められるなら上等じゃないか。

「とっておきのをかましてやる」

後はロビーから走ってげて、野となれ山となれだ。残りの一人がぼくを追ってきたら、レセプション・デスクにつかまっている人たちもすだろうし、その人たちが秋人と父さんを運んでくれるかもしれない。いけそうな気がしてきた。「やる」以外の選択肢せんたくしはもはや残されていない。

しかし、とっておきの不意打ちをかましたのは、春樹でなかった。イッショウの右手から秋人の足首がすっぽけた。イッショウがふりかえった。ゆかから秋人の上半身が急に持ち上がったかと思うと、秋人は、ななめ上方に飛び出すロケットのように体全体でイッショウにぶちかました。

「なっ……?」
 イッショウが声をこぼした。

「な……」
 春樹もイッショウとまったく同じように声がれた。
「秋人のやつ、気絶したフリをしていたんだ!」

イッショウは、秋人にされてしりもちをついていた。秋人はイッショウにかまわず、デスクに向かって走りだした。

「父さん! 起きるんだ!」

秋人は、父さんのかたをゆすった。秋人がらした分だけ父さんの上半身はれ、目を覚ますことはなかった。秋人は、デスクの中に気づいた。たくさんの人がそこにうずくまっていて、さぞ度肝どぎもかれただろう……こんな事態でも、だれひとりその場から動こうとしなかった。みんなうつろな目のまま、デスクの向こうからのぞきこむ秋人の顔をながめていた。こうなると秋人の判断は速かった。父さんのうでをつかむと、体をかかえてその場から離脱りだつしようとした。

「みんな、にげろ!」
 秋人はさけんだ。

デスク反対側のきつね面は、だまってその様子を見ていた。秋人がさけんでも、父さんを運ぼうとしても、彼女かのじょはそこから一歩も動かず、ひと言も発さなかった。本当にただ見ていただけなので、春樹はそのことに一番おどろいたかもしれない。もしかして、春樹のいるわた廊下ろうか警戒けいかいしているのか? それとも、ねずみ面の男がそうしたように、けのはるか上方を見ているのか? まるで、そこからだれかが降りてくると言わんばかりに。

秋人が父さんの体を持ち上げて、だらりと垂れるそのうでを自分のかたに回した時、イッショウがデスクに向かって歩き出した。春樹は、それを見て立ち上がった。もうかくれている場合じゃないと、急いで西とうに引き返した。

「社員専用通用口」とかかれたとびらをあけ、そこにあった階段を降り、春樹は受付ロビーに飛びこんだ。わた廊下ろうかからのぞいていた時と状況じょうきょうは変わっていなかった。人質たちが四方八方、脱兎だっとのごとく散っていると思いきや、あたりはシーンと静かなままだった。「げようがない……」と、もうみんなあきらめているのだ。

ただひとつ変わったことがあった。イッショウが、秋人の首根っこをさえていた。

「やめろ!」

そうさけんだのは、春樹ではなかった。なんと、きつね面の女だった。

「あ?」

イッショウは、シャツの上から秋人の胸ぐらをつかみ、その体を持ち上げながら狐面の女、スイレイを見た。秋人はまともに息もできず、両足をばたつかせていた。何度も相手のこしや太ももをっていたけれど、イッショウは気にも留めていない。

「スイレイ……今なんて言った?」
 イッショウは言った。

「ただのガキだ。殺す意味はない」

春樹は立ち止まった。いったい何が起きている? 大男のうでからヘチマのようにぶら下がっている秋人は今にも窒息ちっそくしかけていたけど、きつね面の女が男を止めようとしている。彼女かのじょに任せておけば、秋人は助かるのか? ロビーへ無防備に飛び出したにも関わらず、この場にいるだれもが、春樹の登場に気づかなかった。かくれることに意味があるのか分からないまま、春樹は観葉植物のはちのそばにせた。

「殺す意味ならあるさ。人間は駆除くじょ対象だ。さわぐヤツは始末しろというお達しもある」

イッショウは、秋人に視線をもどした。仮面の下なんて見えるわけもないのに、イッショウが笑っていると春樹は確信できた。人体を片手で持ち上げる腕力わんりょくがあるなら、その首を折るのも簡単だろう。

「なによりも、こいつはただのガキじゃない。おれたちに抵抗ていこうした戦士だ。おれはこいつにしりもちをつかされ、死にそうな目にあった」

「減らず口を……」
 スイレイは、人質でいっぱいのレセプション・デスクを指さした。
「さっさと、この中にほうめ。見張りに集中しろ」

「わかっている。だが、首と背骨を折っておいたほうが、収まりはいいだろ?」

春樹は観葉植物のかげから飛び出した。立ち止まっていただなんて、ぼくは大馬鹿ばかだ。

「イッショウ!」
 スイレイが春樹に気づいた。
「うしろだ!」

「秋人をはなせ!」
 春樹はさけんだ。

イッショウがふりかえった。ついにテロリストに見つかってしまった。けど、そんなことはもうどうだっていい。秋人を助けなくちゃ。秋人はぼくの弟だ。たったひとりの親友であり、ぼく自身でもある。

「バン隊長! ぼくに力を!」

実際のところ、こんな芝居しばいめいたことを言っている余裕よゆうはなかった(なにしろ小学校以来の全力疾走しっそうだった)。でも心の中でバン隊長の名前を呼んだのは確かだ。春樹は、右足のポケットに入れていたドライバーをテロリストにつきたてた。ドライバーは、春樹の手をすっぽけた。しそこねたわけじゃない。春樹は、生まれて始めて他人を傷つけるつもりで腹に凶器きょうきてた……そのはずだった。なのにドライバーはかえった。地面へとたたきつけたボールが、元の位置よりさらに高くジャンプするように、ドライバーはテロリストのはだかえってゆかを転がっていった。体にてた凶器きょうきが、勢いよくかえるだなんてありえない。でも、事実そうなった。こいつのはだは岩よりかたいと、春樹のしびれる手は感じ取っていた。

気がつけば、春樹はドライバーの横に転がっていた。急に視界が真っ暗になったかと思うと、次の瞬間しゅんかんけの天井てんじょうあおいでいた。何が起こったのか理解できないでいるうちに、おくれて激痛がやってきた。

「ハ、ハウイ!」

秋人がさけんだ。秋人は、イッショウの手につめをつきたて、足の裏で腹をりながらいっそう暴れたが、その拘束こうそくが解けることはなかった。

春樹の顔から血がていた。鼻がつぶれ、まともに呼吸もできなかった。なぐられたのだろう……指先が動いたところすら見えなかったけれど、イッショウのこぶしが自分の顔にめりんだのだと春樹は確信した。木の棒で石油かんを打ち付けるように頭がガンガン鳴っていた。立ち上がろうとしたものの、足腰あしこしともにふるえ、ゆかから体を起こすので精一杯せいいっぱいだった。

「ア……キトをは、は……ハナせ!」

「おまえら知り合いか?」

イッショウが春樹を見て言った。秋人の体を右手から左手にえ、喉元のどもとから首をめ上げて、春樹にその様子を見せつけた。コーヒー・タンブラーか何かを運ぶような気軽さで秋人をあつかっている。

かくれてればいいものを。仲間を救い出すためにこのおれに立ち向かってくるとは……」

犬の仮面の穴からイッショウのひとみのぞいていた。春樹はそのひとみを見てこおりついた。

「感動的じゃないか……言われたとおり、手をはなしてやらなくちゃな」

「や……やめてくれ……」

春樹は言った。いや……言おうとして言えなかった言葉の残りカスが、そんなふうにくちびるふるわせただけのことだ。春樹は、すでにゴキリというイヤな音を聞いていた。

イッショウが手をはなした。秋人の体は力なくその場にくずれ、ゆかに落とした布のように横たわった。秋人の首は、折れていた。

春樹は、イッショウに向かって走り出した。この男を、秋人と同じ目に合わせてやるということ以外なにも考えていなかった。

今度は、イッショウの動きが見えた。ヤツもこちらに向かってくる。ただし見えたからといって、どうにかなるわけじゃない。フライパンのような手が顔の前までびてきたかと思うと、何一つ抵抗ていこうできないうちに春樹ものどもとをめ上げられた。足が地面からはなれ、メリーゴーランドに乗っている時のように体が持ち上がった。

「殺してやる!」
 息の止まる前に春樹は言ってのけた。

「泣くんじゃねぇ」
 イッショウは言った。
「お前もすぐに同じ場所に行くんだ……」

「やめろ、イッショウ!」
 またスイレイが言った。
 完全に怒声どせいだった。
「ただの子どもだ!」

「テメェはだまっていろ!」
 イッショウも怒鳴どなり返した。

春樹は、イッショウの手首から右手をはなした。「確かここにしまったはずだ、たのむからここにあってくれ」と万感の願いをめて自分のおしりをさぐった。

「まずい! 手をはなせ、イッショウ!」

スイレイがレセプション・デスクの向こうからさけんだ。そのさけびは、いかりにられたものでなく恐怖きょうふによるものだった。

春樹の右手にナイフがあった。牛仮面の男をたおしたバン隊長のナイフだった。イッショウがおくれてそれに気づいた。

「うわぁぁぁ!」

まるで子供のような悲鳴だった。大男のテロリストがこんな風にわめくだなんて、想像もしていなかった……春樹の首を一周するほど巨大きょだいな手が、急にゆるむのを感じた。イッショウは春樹をはなそうとしたが、おそかった。春樹は右手をげて、イッショウの首にナイフをてた。

時間が止まった。イッショウは動かなかった。春樹は動けなかった。こんなはずじゃなかった。これと同じものが、牛仮面をたおしたのをぼくは見た。このナイフを見た瞬間しゅんかん、イッショウはさけんだ。こいつらの体がどんなに固くたって、このナイフだけははだを通すはずだった。そのはずだったのに! 

ナイフが、手からすっぽけた。は、岩のようなはだを通らなかった。落ちたナイフが、フロアのカーペットにサクッとさったにも関わらず。

「イッショウ、無事か!」
 スイレイは、自分の持ち場を放棄ほうきしてこの場にけつけた。

「あぁ……」
 イッショウは呆然ぼうぜん自失だった。
「ハズレだったようだ……」

「危なかった」
 スイレイは、落ちたナイフを見て言った。
「本物なのか? どうして子どもがこれを持っている?」

「そんなことはどうだっていい!」

イッショウは、春樹の首をめ直した。それから空いている方の手で、春樹の顔面をなぐった。春樹はふたたび背中から落ちた。なぐられた痛みと、ゆかにぶつかった衝撃しょうげきで、口から血をいた。意識が飛びそうだったし、そうなればどんなに楽だろうか……

「イッショウ!」
 スイレイが言った。

だまっていろ! おれはこいつを殺す! これ以上指図するなら、スイレイ、おまえもだ!」

イッショウは、仮面の下からツバが飛び散るくらいわめいていた。おにを模した犬仮面の形相と、いまやいかたけっているはずの素顔とで、果たしてどちらのほうがおそろしいだろうか? 

「こんなもんじゃねぇぞ! 体中から血がでるまでなぐり続けてやる」

春樹は、イッショウの言葉を聞いていなかった。いや……聞こえなかったというほうが正確だ。かつてないほどの痛みが頭部をおそい、そのてっぺんから中身も飛び出したみたいだった。背中をたたきつけたせいで肺が痙攣けいれんし、鼻血が気道をふさいでいることも相まって、呼吸どころじゃない。こしより下は余すところなくしびれていて、いま現在も金槌かなづちなぐられているような感覚だった。もう二度と立てない気さえした。

二度と立てない……? 首の骨を折らた秋人のように……? ぼくはこれから撲殺ぼくさつされるのだ。犬の仮面をかぶった赤かみの大男に……だから言ったろう、秋人? 赤、これよりおそろしい色はないって。

「待つんだ、イッショウ!」

これ以上イッショウの神経を逆撫さかなでするものはないと思っていたが、そうでもないようだ。今のイッショウは、この場にいるたった一人の仲間にもなぐりかかりそうなほどキレていた。

「おい、スイレイ……おれがいま言ったことを……」

「ちがう!」
 スイレイはなおも言った。
「おかしい! お前のこぶしから血が出ている! いつ、ケガをした?」

「血?」

イッショウは、こぶしを自分の顔の前に持ってきた。丸めた指の付け根を呆然ぼうぜんながめていたが、すぐに鼻で笑った。

「このガキの返り血だ、バカめ! 不死身のおれたちがケガなんざ……あ……?」

「どうした……?」

「あ、あつい……そんなバカな?」

「だからどうしたんだ?」

「あ……あぁぁぁ! 」

イッショウの声が、悲鳴にとってかわった。血まみれのこぶしに、火がついたからだ。あぁ、まただ……と春樹は思った。なんて不思議な現象なのだろう。牛仮面がそうだったように、火はどこからともなくやってきて、対象の体を焼き始めた。

「イ、イヤだぁぁ!」
 イッショウはさけんだ。

右手はまるでロウソクだった。すぐにひじかたへと燃え広がっていき、イッショウは右腕みぎうでまわした。火を消そうとしたのだろうけど、それはかみに引火するという事態を招いただけだった。真っ赤なかみに赤い火が灯り、ロウソクがまた一本増えた。仮面が落ちた。春樹は、この男の素顔を拝む機会についぞめぐまれなかった。仮面の下では、火が顔の表皮をがしているところだった。

すぐそばにいたはずのスイレイは、五メートルくらい後ろに飛び退いていた。仲間の体に火がついたとなれば、消火器を探すなり、自分の服を相手にかぶせるなり、対処すべきことはいくらでもあるだろう。でも、スイレイは何もせずただながめているだけだった。暴れくるうイッショウに一歩たりとも近付こうとしない。その火が自分に燃え移ったらどうなるか、スイレイは知っているのだろう。

「そんなバカな……」
 スイレイは言った。
「さっきのは間違まちがいなくハズレだった!」

イッショウは、二、三歩ほど前に進んだきり、その場にうずくまった。死んだわけではなかった。火の痛みは、骨のずいまでいたことだろう。かれの痛みが実際どれほどなのか春樹に知るすべはないけど、それくらい痛ましいさけびだった。

春樹は、弟のかたきが苦しみながら死んでいく様を横目でながめていた。ただ見ているだけで、それが良いことなのか、悪いことなのかも判断がつかない。春樹の意識だってこの世界から旅立つ寸前で、隣人りんじんの火事をおもんばか余裕よゆうはなかった。

イッショウは、うつせの状態になった。間もなくして動かなくなり、うめき声に近くなった悲鳴もやがて止んだ。黒いかたまりがその場に残っていた。スイレイは、カカシのように立っているだけで、何もできないという点では春樹とたいしてちがいなかった。レセプション・デスクの中から何人か顔をのぞかせていたけれど、みんな目を見開いて固まっていた。だれひとり、口を開く者はいなかった。

沈黙ちんもくを破ったのは、見知らぬ男だった。男は、どこからともなく現れて、春樹のそばまで歩いてきた。

「二本角が二体か……久しぶりの大物だな。だが、一ひきは勝手に死んでしまったぞ?」

さすがにイッショウや牛仮面の男ほど大きいわけではないが、その男もなかなかのガタイだった。バン隊長と同じチョッキを着て、手には細身のナイフをにぎっている。かみの色は、春樹にとってありがたいことに、白髪はくはつ混じりの黒だった。

男はひとりじゃなかった。同じような格好の男が他に五人も現れて、スイレイの周りを囲っていた。あるいは五人以上いたかもしれない。あるいは女の人もいたかもしれないが、視界の大半はきりがかかったようで、おまけに眼鏡もこわれたせいで、その確信はなかった。

一方で、スイレイは落ち着いていた。知人が自然発火したことに比べれば、こんなのでもないといったところか。当然だろう。これこそが、彼女かのじょの望んだ状況じょうきょう……彼女かのじょの任務なのだから。

「よお、カンパニーの飼い犬ども」
 スイレイは周囲を見渡みわたしながら言った。
「たったこれだけの人数で私を相手にするつもりか?」

「十分だよ」
 白髪はくはつ交じりの男はナイフを構えた。
「いますぐ焼いてやるからかかってこい」

男が「どこからともなく現れた」というのは正確でなかった。春樹は、男とその仲間が登場したところを偶然ぐうぜんにも目撃もくげきしていた。ちょうど仰向あおむけで寝転ねころび、上を見ていたからだ。かれらは、はるか上方のわた廊下ろうかからこのフロアへ飛び降り、 着地してのけた。まるで映画のようだ、と春樹は思った。そう思ったきり、春樹の意識は途切とぎれた。真っ暗になった。映画が始まり、劇場がフッと暗転するように。

長い一日だった。今日こそ、いい夢を見られるといいのだけど……



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