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月面ラジオ {48 : 月面家族 }

あらすじ:月美の想い人・青野彦丸は、月で宇宙船を作っている。そして、宇宙飛行士のエリン・エバンズと結婚した。

{ 第1章, 前回: 第47章 }

カメラのスイッチを入れてレンズを自分に向けた。
机の上に置いて彦丸は喋りはじめた。

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「やぁエリン」

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メッセージ・ムービーを始めたころは、このあと「元気かい?」とか「調子はどうだい?」とか、お決まりの文句が続いていたわけだけど、何十回も撮影をしていくうちに、いつの間にかその手のものは省略するようになっていた。

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今日で三年が経ったわけだ。
僕たちが結婚してからってことだけど。
それはつまり、離れ離れになって二年経ったってことでもある。
信じられないね。
結婚して三年、でもそのうち二年はこうして録画した映像のやり取りをするだけだなんて。

君を攻めてるわけじゃないんだ。
火星へ行く人にプロポーズした僕が悪いんだ。
わかってるさ。
でも二年がこんなに長いものだなんて思わなかったんだ。
時間なんて、いつもはすぐに過ぎてしまうのに。

この映像が届くのは、君が火星を発っているころかな? 
月まで戻ってくるのにあと半年もかかるのか……
待ちきれないよ。

なんだか照れくさいな……
うん……
大事な話をするよ。

ユエが僕たちの養子になると決まった。
もちろんずっと前から決まっていたことだけど、正式にそうなると決まったんだ。
ついに。
君がこの映像を見ているころには、法的な手続きも含めて全て終わっていると思う。
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彦丸はカメラを手に取った。
イスに座ったままふり返って部屋を映した。

黒髪の少女がベッドに腰かけていた。
窓に射しこむ淡い陽光が、白い壁紙を撫でるように照らし、木の床も照らし、そして少女を照らしていた。
体温を感じさせない青ざめた肌、潔癖な白い服、漆のような黒い髪、少女を包みこむ人工の日差し……
その強いコントラストは目に痛いほどだった。
少女はベッドから足を投げ出して、「他にやることもないから」という理由でプラプラさせていた。

奥の棚には写真立てと人形とがいくつも並んでいた。
写真の中では、少女が家族といっしょに笑っていた。
でも、写真と人形のすべてが、少女の手が届かない場所に置いてあった。
両親の贈り物をわざと高い位置に置いていることを彦丸は知っていた。

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やぁ、ユエ。
エリンに何かひとこと言ってくれないか? 
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ほんの一瞬、何もかもを見透かすような黒い瞳がレンズを見た。
でも、ユエは何も言わずにベッドを降りて歩き出した。
ユエが部屋を出ていくまで彦丸はしばらくカメラで追った。
白い袖から伸びた腕が、足をプラプラさせていた時と同じように所在なさげに揺れていた。
その手足は細く(ほんとうに細いのだ)、歩いているだけで折れてしまうのではと心配になるほどだ。
やがて扉がしまると、彦丸はカメラを元に位置に戻し、またしゃべり始めた。

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このごろは、あんまりしゃべらないんだ。
前はあんなにおしゃべりだったのに。

ユエはかしこい子だ。
本当の両親と暮らせない事情は理解しているよ。
それでも心のどこかでは、自分が捨てられたと思っているみたいなんだ……

そうか……
ユエだけじゃなくて、チエンの話もしておかないと。

チエンは、もう月には戻れない。
いや宇宙そのものに戻れないだろう。
地球での長期療養が必要なんだ。
だからユエの親権も放棄した。
つらい決断だったと思う。
僕たちの友人がまたひとり月からいなくなってしまった。
でも、一番つらいのはユエだろう……

それと……
ユエの退院日が決まった。
君が火星から帰ってくる日だ。
ふたりで君を迎えにいくよ。

それから三人でラボに住もう。
月面ラボ……
君の古巣だ。

研究所というより、ベンチャー企業の寄り合い所みたいなところになったけどね。
様変わりしていて君もおどろくと思うよ。
なかなか好評なんだ。
おもしろい人たちが集まっている。
ムリしてラボを買い上げてよかった。

ユエは、この病院以外に住むのは初めてだ。
気に入ってくれればいいのだけど。
休日になったら、三人で出かけよう。
いっしょに月の洞窟を探検するんだ。

最後に僕の現状報告だ。
現状と言っても仕事の話だけどさ。

こっちは順調だ。
三年かかったけど宇宙船の試作機ができそうだ。
なかなかいい出来だ。

でも本当に重要なのは、ハルルをベースにした管制システムさ。
こいつは宇宙の流通に革命を起こすよ。
建設中のラグランジュと、月軌道基地との往復試験がもう始まっている。
人工知能ハルルはグルアーニーの傑作だ。
彼はまさしく天才だよ。

僕は、ずっと開発プロジェクトの統括をしているよ。
それとスポンサーのご機嫌うかがいかな。
ほんとは宇宙船の外装や内装の仕事もやりたいんだけど、こっちも大切な仕事だからね。

会社が大きくなれば、木星や土星まで行ける高速宇宙船を僕たちの手でつくるんだ。
火星なんてほんのご近所さんに思える代物さ。
今はその時のためにスポンサーを……
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この映像をエリンが見てくれたかどうか僕にはわからない。
映像を火星に向けて送信したその日、エリンは帰らぬ人となった。
エリンの乗った宇宙船が離陸に失敗し、そのまま墜落してしまったのだ。

家族と離れ離れになったユエ、家族を失ったばかりの彦丸、ふたりは家族になった。
エリンがいなくなっても、ユエが養子になることに変わりはなかった。
当時、このことは社会問題というほどではないにしても、それなりに人々の関心を集めた。
なにしろあの「ルナリアの子」が男手ひとつで育てられることになったのだから。

「ユエの里親になるとしたら、エリン・エバンズ以上にふさわしい人はいない」という意見を持っている人が一定数いたのは確かだった。
エリンは、火星の探訪者として母国の教科書に名前が載っているし、彼女の卒業した学校がエバンズ高校と改名するくらいには有名人だった。
同じようにユエも、地球外で初めて誕生した人類として、生まれる前から歴史に名が残ると決まっていたし、誕生日となれば今も世界中からお祝いの言葉が届く。
ふたりに比べれば、彦丸は月に住んでいる得体の知れない中年男でしかなかった。
だからなのだろう。
エリンが 亡くなったあと、「月で生まれた女の子が、青野彦丸という謎の人物の娘になった」という事実が、異常なこととして際立つようになった。

要約すれば「お前なんかが親だとユエがかわいそうだ」という丁寧なメッセージで彦丸の受信箱いっぱいになるのは、予想の範疇だった。
「養子縁組を辞退しなければ、ひどい目に合わす」という脅迫めいた文面を頂戴する羽目になっても、彦丸は驚かなかった。
メッセージはすべて地球に住んでいる人が送信したものだった。
でも月に住んでいる彦丸に文字通り手を出せる人なんているはずもなく、メールでの脅しなんてモノの数ではなかった。
仮にカミソリを一本送るにしても数万ドルが必要な当時、ユエを慮ってその費用を負担しようという気骨のある人間はいなかった。

そんな中、ユエは「彦丸以外の人が父親になるのはイヤだ」と言ってくれた。
ユエの両親も養子縁組の続行を強く望んだ。
彦丸はそれが嬉しかったし、みんなの期待に応えようと思った。

当初の予定通り、ユエと彦丸は月面ラボに移り住んだ。
月面ラボでの暮らしは、ユエにとってかけがえのないものになってくれたと彦丸は思う。

当時の月面ラボは、新進気鋭の企業と、そこで働く人たちがたくさん集まっていた。
彦丸は、研究所として役目を終えた月面ラボを買い上げて、月で起業する者たちのためのテナントオフィスとして開放していた。
もちろん彼らが寝泊まりして暮らしていける生活環境も提供した。
月面を見渡せるカフェラウンジにスポーツジム、菜園も兼ねた温室、最上層には展望室もつくった。
月面都市の賃料はまだまだ高く、不便なところとはいえ、月に割安でオフィスをかまえられるとあって、月面ラボは盛況を誇った。
そのときの企業の多くは、有名な宇宙企業として後に大きく成長した。
すでにソフトエンジニアとしての才能の片鱗を見せていたユエにとって、起業家たちとの交流は刺激的なものだった。
ユエは、おとなたちの間にすぐに溶けこんでいった。

反対に学校はだめだった。
ユエは最後までそこに馴染むことはなかった。

順を追って話そう。

ルナリアの子といえど、ユエは八歳、学校に通わなければならないというのが衆目の共通認識だった。
彦丸でさえ、そのことに懐疑的ではなかった。
でも、ユエにとって学校に通うことは苦痛以外のなにものでもなかった。

まず何よりも重要な問題は、月に学校がないことだった。
ユエが最初の子どもなのだから当たり前である。
だからユエは地球の学校に通わなければならなかった。

そのころ登場したばかりの「仮想空間」の技術を使ってユエは学校に通った。
仮想空間とは、コンタクトレンズに遠い場所の映像を投影し、本当にそこにいるかのように体験できる技術だ。
仮想空間が実用化した当初、それはすばらしい技術革新のように思えたし、事実そのとおりだった。
ニュージーランドで育った青年が、自分の生まれた村から一歩も出ないままイギリスのオックスフォード大学に通えるかと聞かれれば、そういうことも可能な時代になっていた。
ネットコンタクトさえつけていれば教室にいなくても、地球の裏にある大学の講義を受けられるのだ。
生徒同士もお互い隣にいるかのように話し合うことができるし、先生に質問することだってできた。
遠く離れていることを忘れてしまうほどのできだった。

でもユエにとってはそうではなかった。
月特有の問題がそこにあった。
月と地球の距離はあまりに遠く、通信にタイムラグが発生してしまうのだ。
その差は往復で三秒。
たったの三秒というけれど、ユエにとっては他人との間に石の壁があるようなものだった。
同級生たちとおしゃべりしていたとしても、自分だけ反応がどうしても三秒遅れてしまうのだ。
みんながドッと同時に笑うなか、ユエだけが三秒後に笑う……
それはあまりにも奇妙な光景で、周りの同級生たちはシンとしてしまうのだった。
自分が笑うとみんなが笑うのをやめてしまう光景は、後々までユエの心を深く傷つけた。

ユエは、いつしか学校へ行くのをやめてしまった。
仮想空間からログアウトすると、回りから人だかりは消え、音もなく、ひとりぼっちになった。
ユエにとってはそっちの方がずっと自然で心地よかった。

かわりに月でユエの教育を担当したのはグルアーニーだった。
彦丸と共同で起業し、同じく月面ラボに住んでいたグルアーニーがユエを教えるようになり、ユエも彼のことを「先生」と呼ぶようになった。

グルアーニーの持つ圧倒的な知識と深い哲学に、ユエはあっという間に感化された。
彼は月で最高峰のソフトウェアエンジニアだった。
月面都市運営の中枢ともいうべきメガシティシステムの開発を任されていた逸材だ。
彼の名を知っている人なら誰もがツバを飲んで羨ましがる授業を、わずか八歳のユエが独占したのだった。
もともと才能に恵まれていたユエは、あっという間に一人前のエンジニアとなった。
数学や物理、工学などの基礎学力だって、数年のうちに彦丸でさえかなわなくなった。
グルアーニーは、教え始めるずっと前からユエの力に気づいていたのだろう。

「昨日、課題で出したゲームは組み上げてきたか?」

ある日、月面ラボの開発室でグルアーニーがユエにそう言うのを彦丸は聞いた。

ユエがパチっと指を鳴らした。
ユエの力ではパスッとこすれるだけの微妙な音だったけど、たぶん問題はなかっただろう。
それを合図にハルルが、グルアーニーの仮想空間へユエのつくったゲームを転送した。

グルアーニはヒゲを指でつまんでこするといういつもの手クセを見せながら唸った。

「むむ! きちんと動くようだ。バグもない。見事なもんだ。」

はたから見て何をしているのかはよくわからなかったけど、グルーアーニは彼のストレージに転送されたプログラムをネットコンタクトで読んでいるようだった。

「先生。」
 ユエが言った。
「古い言語でソフトを作るのはあきちゃった。アセンブリだってもうじゅうぶん。古典の授業はやりたくない。」

「現代の文学が古典の継承であるように、最新技術を学ぶときに古い技術を知っておくのは大切なことだ。」

「そんなのうそ。最新技術のいいところをかすめるとるだけでも、私はすごいものを作れる。」

「そんなことを言っている間は、価値のあるものは作れない。俺のマネをするだけの技術者になってしまう。」

ユエはなおも反論しようとしたけど、グルがそれを押しとどめた。

「おっと、これ以上議論する気はない。俺の考えに納得してもらう必要はない。教育方針だって変える気はない。イヤなら別の人に教えてもらえばいい。」

ユエは口をすぼめた。
何か言うべきことを探してはみたけれど、結局、沈黙してしまった。

「よし。せっかくだからこのゲームで遊んでみようじゃないか。」

「一万人以上で同時対戦できるように改造しておいたわ。」

「お父さんも呼んできたまえ。」

「ふざけるな。」
 彦丸は言った。
「僕はいま仕事をしているんだ。あとでドックにもいかなくちゃならない。君たちに付き合っているヒマはない。」

でも結局、僕はゲームに付き合うはめになった。

ユエに負けず劣らず、彦丸とグルーアーニの会社も成長していった。
グルが実現したのは、月と地球の衛星軌道間を、小型の無人輸送船で安く確実に往復するための管制システムだった。
衛星軌道を往復する数百もの宇宙船が、ひとつの混乱もなく、宇宙の港で発着を繰り返す様は壮観そのもので、やがて宇宙の流通を爆発的に拡大させるに至った。
すでに宇宙船開発企業の最大手として名を馳せていたルナスケープ社さえ、その力を認めざるをえなかった。

宇宙の流通をすべて牛耳ろうと目論むルナスケープが彦丸たちの会社を買収しようとするのは、そう遠くない将来のことだった。
彦丸はとある目的のためにその買収を受けるのだけど、それに激怒したのがグルアーニーだった。
しかし決定がくつがえることはなく、まもなくしてグルアーニーは彦丸と袂を分かつことになる。
彦丸とユエは月面都市に移り住み、グルアーニーは月面ラボに残って別のことを始めた。
だが、グルは月から姿を消すことになる。

月面ラボでの生活にすっかり慣れてきたある日のことだった。
十歳になったばかりのユエが彦丸のところに駆けてきた。
彦丸は、カフェテリアの窓際に座ってコーヒーを飲んでいるところだった。

「ねえ彦丸、きいて。」

ユエが快活に言った。
地球にいる同年代の子どもと比べたらずっと細い手足ではあったけれど、病院生活を送っていたころに比べれば、ユエはずっと大きくなっていた。

「地球の方向からラジオの電波を拾ったわ。歌みたいだけど、何を言っているのかわからないの。聞いてみて!」

ユエがハルルに合図すると、彦丸の耳の骨に埋めたマイクロ・イヤホンで音が鳴った。
たしかに歌だった。
聞いたことのない歌だ。

彦丸はちょっぴりおどろいた。
日本語の歌だったからだ。
どうやら中学生くらいの女の子が歌っているようだ。

「生意気にも歌詞を暗号化しているみたいね。」
 ユエは言った。
「解読してみせるわ。」

「落ちつけ、ユエ。」
 彦丸は言った。
「これは暗号じゃないよ。れっきとした言語だ。遠いところにいる友人を訪ねる時の歌だよ。」

「何を言っているかわかるの?」

「もちろん。僕の住んでいたところの言葉だからね。いい歌じゃないか。」

「そうかしら?」
 ユエは首をかしげた。
「素人丸出しでつまらない歌だわ。」

そういうと、ユエは引き返して行ってしまった。
彦丸はため息をついた。

「やれやれ。飽きっぽいところは君に似たのかな、グル?」

その言葉に合わせてグルアーニーの姿が彦丸の仮想空間に現れた。
テーブルを挟んで対面の席に座っている。

「あいつは、未知のものにしか興味がないんだ。」
 グルアーニーが答えた。
「それと、俺は根気強いほうだし、飽きっぽいのはお前の方だ。」

「グル……」
 彦丸は、その毛むくじゃらの上にある小さな目を見つめて言った。
「ほんとにここを出ていってしまうのか?」

「そのつもりだ。」

「そんなにルナスケープへの吸収合併の話が気に入らないのか?」

「ネルソンの下にいたんじゃ窮屈で死んじまうからな。」
 グルアーニーが言った。
「俺は、自分の幅を利かせるのがたまらなく好きなんだ。だからお前と組んで、ここで好き勝手やっていたわけだ。お前だって、俺がそういう人間だとわかっているだろう? 俺だって、お前のことをわかっているつもりだ。だからこの話に怒りこそすれ、おどろいているわけじゃない。」

「まぁね。こうなることは予想していたよ。たとえ君を失望させることになっても、僕はルナスケープに行くつもりだ。木土往還宇宙船のプロジェクトがあそこで正式に発足しようとしている。僕もその立ち上げに参加したいんだ。」

「好きにすればいい。」

グルアーニーが言い放った。
彦丸とグル、ふたりが袂を分けた瞬間だった。

「ユエのことは心配するな。」
 グルは言った。
「あいつには俺のすべてを叩きこんでいる。知識だなんて安っぽいものじゃないぞ? 思想とか哲学とか……なんと表現していいのか俺にもよくわからんが……もっと根源的で大切なものをあいつに伝えたつもりだ。」

「それが一番心配なことかもしれないな。近頃のユエは何をしでかすかわからない。」
 彦丸は苦笑いしながら言った。

「それにハルルがいる。おまえなんかよりも遥かにまともな導き手になってくれるだろう。」

「きついことを言うね。」

そうは言いつつも、グルアーニーの意見に彦丸は半ば同意していた。
そんな自分に呆れ返るばかりだった。

「なぁ、グル。提案なんだが……おっと、そんな顔をするな。もうムリに君を引き込もうとしているわけじゃないんだ。」

「なんだ?」

「僕のことが気に入らないだけなら、君がここを出ていく必要はない。近々、僕たちはここを出ていくつもりだ。」

「あぁ、そうか。ルナスケープに行くなら、月面都市に住むほうがいいもんな。」

「それだけじゃない。」
 彦丸は言った。
「じつはもうひとりルナリアの子を引き取ろうっていう話があるんだ。事情は……まぁ言わなくてもだいたいわかるだろ?」

「アルジャーノンのことか?」

「アルを養子にする条件のひとつが、月面都市で暮らすことなんだ。ここは僻地だし、アルの両親はそれを心配している。ユエはラボを離れるのを嫌がるだろうけど、事情を話せば納得してくれるさ。ユエだって、アルのことを弟のようにかわいがっているわけだしね。」

「そうか、出ていくのか……」
 グルアーニーは静かに言った。
「まぁ、なんだっていいさ。お前が俺のジャマをしなければ、それでいい。俺もお前の手助けはしないが、ジャマだってしない。それでどちらも幸せだ。そうだろ?」

「そのとおりだ。」

「お前たち月面家族に幸あらんことを。」

最後にそう言い添えると、グルアーニーは彦丸の仮想空間から退室した。

彦丸は空っぽになったカフェテリアの席を見つめた。
それから、コーヒーが手付かずのままであることを思い出した。
飲みそこねたコーヒーは、もうすっかり冷めていた。


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