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「風俗の悪い所を言うと差別になるのか」について

●新聞記事の罪深さと、当事者言論の意味深さ

8/19の毎日新聞デジタル報道センター記事「『生活保護で風俗やめられた』なまぽちゃんが伝えたいこと」は、多くの人の風俗に対する“常識的な”価値観に難なく受け入れられる記事でした。一方で、だからこそ、多くの問題を抱えた記事として、SNSで当事者らから批判の声も上がりました。

同時に、記事で取り上げられた当事者にネガティブな反応や嫌がらせツイートが当事者からくるようになったと聞きました。そして、私の記事批判のツイートがそのきっかけを作った、背中を押した形になったから、考慮してほしかったといわれ、申し訳ないと思うとともに、当事者に矛先が向かうことについてどうしたいいのかと悩み、考えました。

特に今回の記事のような、ある一人の当事者のTwitterアカウントやブログでの発信内容が際立って紹介されているような記事を批判すれば、そこで取り上げられている当事者の発信も記事自体も両方一緒くたに批判しているように見られがちです。そのことについて私は元々問題意識を持っていたので、エクスキューズは3回ほど入れて公言したつもりでしたが、もっと人々に注意喚起し、もっと説得力を持って強調すべきだったと思っています。そこで改めて、第三者の書く新聞記事の問題と、あらゆる当事者言論の尊重、この二つを分離して考える意味とそれぞれの重要性について述べたいと思います。

●新聞記事に求める社会性の道義的責任について

今回私が一番訴えたかった問題というのは、新聞記事というのは、ある一人の当事者の個人の視点を、社会の視点に変えてしまう力があるということです。そのことの社会性の責任は記者、編集部、新聞社にあります。一人の当事者が個人としてブログやSNSで発信することの社会性とは意味も性質も違うものです。

この社会性の責任というのは、個人の視点だけではカバーできない視点や問題をフォローする公共の福祉としての新聞の責任のことです。そうした客観的・中立的・社会的視点や論点が入ることで、取材対象者一個人の視点や経験の話で終わらず、社会や政治の不作為の問題追及にもフォーカスし、人々の日常的な感情ではなく、非日常の理性に働きかけることができると思います。そのような記事であれば、取材対象者個人の経験や視点に焦点化されたり、個人に矛先が向くようなことも極力回避できるのではないでしょうか。

●職業差別に使われる可能性の高い言葉をただそのまま載せることについて

例えば今回の記事で言えば、私が一番ひっかかったのは、風俗の仕事内容の説明の部分で、例えば、「ドブ臭い口に笑顔でキスして歯周病もらって」といった表現が紹介されています。こういったセンセーショナルな表現を紹介すれば、人々は風俗の仕事が臭い汚い仕事なんだ、そのように言い表していいのだと認識/再認識します。これがただそれだけで済まないのは、風俗で働いている人が、他者から差別的なことを言われるときに使われる代表的な言葉の一つに、「汚い体」というのがあるからです。私自身、当事者からの相談で、「(仕事のことを知った大事な人から)お前みたいな汚い体、と言われた」と、泣きじゃくりながら電話してくる当事者をたくさんみてきました。そのたびに、「あなたは汚くなんてないよ、汚いのは、そういうことを言う人の心が汚いんだよ」と必死で否定して、内面化しなくていいと、励ましてきました。

確かに当事者にとってきつい性的サービス内容はあり、個々人のセックスワーカーにおいては、思ったことをそのまま表現する人は多いですし、それはその人にとって必要なというか必然性のある表現行為なんだろうと思います。ただ、その人にとってきつい仕事内容であったことを新聞として、何のためにどのような表現を使って読者に伝え、何を考えてもらうのか。あるいは差別に利用される心配のある表現が必要な文脈なのであれば、どのような補足説明・注意書き等を入れるか、別途考える必要がある事のように思います(他のケア労働についてであれば、そのような表現の配慮がされるのではないでしょうか)。そういったことが編集者(記者)と取材対象者の間で相談されたり、個人の視点と社会の視点(公共の福祉の視点)の調整というか、個人の視点がフォローされたり、個人に(表現主体としての)責任がいかないように記者として配慮するポイントではないかと思います。

●風俗を他者化しない書き方を

もう一つは、風俗が性感染症に感染するリスクのある仕事ということも記事では具体的に紹介されていますが、読者の人々に、社会にある問題として考えてもらうための記事であるならば、このことを他人事として読ませていいのか、この問題に人々は一切責任がなく、風俗だけの問題ということでいいのか、ということも思います。

おそらくこの記事を読んだ人のほとんどは、「風俗では性感染症に感染するリスクのある粘膜体液接触のサービスがこんなに行われている!ひどい!」と考えるでしょう。では、そう考える人々は、パートナーとのセックスまたはスキンシップで、性器に口や唾を付けてくる相手がいたとき、ちゃんと叱って、「性感染症のリスクのある行為だからダメ」と注意したり教育したりしてきたのでしょうか。セックスするときは全部の工程でコンドームをちゃんと使ってきた人々なのでしょうか。もし多くの人々が、お金のためではなく、「愛」を得るために、あるいは相手に「愛」をチラつかせて、粘膜体液接触を伴う性行為をしてきた覚えがあるのなら、そういうリスキーな性文化を助長してきた一人一人が、風俗で働く人々に影響を及ぼしてきたことの罪深さを反省してもらわないといけないのではないですか。しかし現実は、自分のセーファーセックスや、性と見返りの関係さえ完璧ではない人が、風俗のリスクを批判するというパターンが多いのではないでしょうか。ここで人々に何も考えさせずに思考停止させるのは、これからも風俗で働く人々に社会の性文化を繰り返し強いることに繋がるのではないでしょうか。

その他、当該記事の持つ基本的な枠組みについては他にもたくさん言っておきたいことがあるのですが(※1)、最終的にメディアの人々に押さえておいてほしいのは、風俗の悪い面についての記事を書いてはいけないのではなく、ほぼ全ての当事者がある程度、「この書き方なら違和感ないよね」という線やバランスというのがあると思うのです。全員が納得できなくても、「これならだいたいのみんな納得する、波風立たない書き方だよね」っていう書き方です。記事でスペースを分けてもらえなかった多様な当事者たちの声を想像しながら、誰もが救われる、誰も置き去りにしない記事はどういう記事かを考えながら書けば、いい記事が書けると思います。

●どんな当事者も他人によって極論に結びつけられやすい

以上、編集の仕事の道義的責任の中身について述べてきましたが、それでもまだ、やはり当事者の言論・発言内容と、それを紹介する記事自体を分けて考えにくい人とか、当事者を批判したいという人に向けて、次に書いていきたいと思います。

問題の記事を書いた記者ではなく、記者が取り上げた当事者に寄せられる批判というのは、記事と当事者を混同してみるケースのほか、記事が問題があることを当事者に伝えたいというケースや、当事者の発言内容そのものを批判したいというケースなど、いろいろあるように思います。

また、問題となった記事に取材協力した場合だけでなく、偏った思想の媒体や極論を言う人物のメディアに出ることにおいても、当事者に色がついて見られがちです。しかし、偏った思想の媒体や極論を言う人間のメディアに出たからといって、その当事者も同じであるかのようにいうのは違うと思うし、問題があると思います。

●被差別の属性からの解放の言論と、属性としての解放の言論

まず、「セックスワークからの」解放を求める当事者、「セックスワーカーとしての」解放を求める当事者、いずれの当事者も批判対象になることについて。私は、当事者が生き延びるために必要なことや、その人のエージェンシーやレジリエンス、エンパワメントに繋がっていることは基本的には認め合うべきだと思っています。風俗であれ、生活保護であれ、SNSでの発信であれ、社会活動であれ、どれもその人にとって大事なものだということです。

相手が迷惑だと感じない意見交換や対話は全然いいと思いますが、当事者が自分のためにやっているあらゆること、その人にとって必要で大事な言論や社会的な発信やネットワークを妨害することや嫌がらせはやってはいけないし、そのようなことがあれば、自分とどんなに意見が違う当事者であってもその人の言論の自由を守る為であれば力になりたいと思っています(※2)。

当事者のやることなすこと否定しない私のこの考えは、人が再分配にありつくことや、健康で文化的な暮らしに関わることについて、他人が無責任に邪魔したり攻撃したりしてはいけないという考えに基づくものです。資本主義的な武器の選択肢をあまり持たない当事者であればなおさら、その人の在り方を安易に否定すべきでないし、本人が納得いくオルタナティブを提供できないのであれば、より一層のことです。

●社会との関係性をジャッジしないこと

次に、一般的に、問題となった記事に取材協力したり、偏った思想の媒体や極論を言う人物のメディアに出た場合に、当事者に色がついて見られがちになることについて。それによって当事者が批判されることについても、私は当事者を責めるのはおかしいと思っています。

人には様々なサバイブの仕方があります。また、自分が社会と繋がることや、社会的なネットワーク、コミュニケーションを持つことは、誰にとっても精神的な安心感や健康にも関わるものであり、それらに繋がることは尊重すべきと思います。

よく、風俗業界や夜の街の人など偏った人間関係であることを、「関係性の貧困」という言われ方をされたりしますが、そのように言われることを批判的に捉えるのであれば、いかに失礼な話であるかわかるかと思います。

また、風俗で働くこと=性搾取被害で人身売買被害、買春=性暴力といった極端な言われ方をすることがあるように、「Aに関わるということはBということだ」みたいな発想や結論に持っていきたい人たちが多すぎます。一人の人間の見えている世界や捉え方、現実や展望というのは、一人一人そんなに単純で一筋縄ではありません。

しかし、後に述べるように、Twitter自体が持つシステムが、議論や見方を極論や単純化に導く面があります。どういうことか、次に続きます。

●Twitterでの議論とTwitterの建て付けの問題

つまりTwitterを使うこと、自分のことがTwitterで話題になることを受け入れている以上、そのことによるメリットだけがほしい、デメリットは引き受けたくないと自分の都合のいいようにはなかなかなりません(だからこそ、Twitterで当事者どうしの対立や分断を押し進めるような記事の書き方はやめてほしいと強く思うのです)。

なぜなら、数で人を見るというふうに仕向けるのがTwitterの特徴で、数で圧倒するには、極論を言う、あるいは人々の怒りや同情に訴えるという傾向にどうしてもなります。これは私一人が発言を気をつけたところで、勝手に言葉を切り取られて印象操作されたり、極論化されて拡散されてしまうので、防ぎようがありません。

だから私はTwitterで議論したくありません。Twitterでの応酬はどう考えても、私が考えるまともな対話にはなりません。ツリーになってても、一部のツイートだけを引用して、自分がひっかかったとこを部分的に切り取って叩くようなことを延々とする光景がたくさんみられます。公開でやるから言葉のボクシングのような激しいやりとりになる傾向があります。それには、以下のようなTwitterの建て付けの問題があると思っています。

・Twitterでは、返信ツイートに対して、返信ツイートをせずに、わざわざ引用リツイートという形でコメントすることができ、これが一般的にマウント取りと言われるものです。自分が議論に有利になったり、いま相手が責められている状態だというタイミングのツイートを、まわりに見せつけるようなやり方ができるからです(フォロワーには、「こいつのこと、やっちまいな!」という暗黙のアピール)。さらに、引用リツイートという形をとることで、新たなスレッドを作る感じになり、トピックもとっ散らかり、これが焦点ずらしに使われることも多いです。

・やりとりをフォロワーにみてほしい、みられてるという心理があるため、自分の意見がいかに正しいか、または相手がいかに間違っているかを印象付けることに意識が働きがちになり、そういう意識を排して2人だけで話す議論とは、中身も印象も全く違う議論になりがち。

・そのため、「Aを認めるとはつまり、Bも認めるのと同じだ」とか、「こんなことをいうなんて、まるで◯◯のようだ」とか、誰も言ってないことまで言ったようにまわりにアピールしようとする、意図してないことまで意図しているかのように勝手に脚色する、悪い何かの例に例えることで、とにかく相手を悪く印象付ける、とにかく相手をネガティブに粉飾する。結果、複雑で丁寧な議論が求められるテーマや、どっちがいい悪いと簡単には分けられない問題であっても、極論が作られやすくなります。これが、現在、極論が溢れる時代になった背景の一つになっているのではないかと私は考えます。

だから、Twitterというツールは、相手が何を伝えようとしているのかをお互いに正しく理解しようとか、互い意見が変わったり影響受けることもあるかもしれない、誤解もあるかもしれないから対話しようという目的のためには使えないどころか、むしろ悪影響しかないと思います。

ただ、Twitterによって、自分の名誉が傷ついたと考える人や、自分に向けられた誤解を解消したいと思う人にとっては、Twitterを通じてそれをやるしかないのと、上述したようなマウント取り的な引用ツイートのやり方や、言葉の応酬になってしまうのも、それもTwitterが人々の間で言論のプラットフォームのような感じになってしまっているため、言論の仕方とか色んなことをそこでみんな学んでしまう、影響を受けてしまうというのが背景にあると思います。有名なインフルエンサーたちもみんな、あまり真似するのはおすすめできないような言葉の応酬を繰り広げているので、それが人々に伝染するのはしょうがないし、Twitterの建て付けがそうだからしょうがないとも思います。だからといって開き直ってもいられないほど、このTwitterでの言葉の応酬はすでに社会問題にもなっているように、やりすぎはよくないよね、というのは、気づいたまわりが何度でも言っていかないといけないと思いますし、SNSの建て付け問題は今後も問題化していくものでしょう。(おわり)


(※1)トピックを並べるといろいろありますが、これについてはまたの機会に詳しく説明できればと思っています。
・属性ごとの社会的資源の公平性の検討のなさ
・固有名詞を持つ個人の社会的記号の強調
・大衆の日常の感情への帰結
・記者の自己投影
・当事者へのフォローのなさ
・女の権利の対立扇動
・悲惨な風俗か自己破産して生活保護かという乱暴な二択で終始

(※2)もちろん、人を傷つけたり、デマや印象操作などのマナー違反や違法行為の言論はだめだし、「風俗撲滅」とか他の当事者の営業妨害・職業弾圧にあたるようなものとかは擁護できないです。また、私になんか力になってほしくない、信用できないって思ってる当事者もいると思うので、そこは余計なお世話や迷惑にならないように空気を読んで…とも思っています。一方、当事者ではない第三者である支援者や論客、メディアには心置きなく批判をさせてもらいます。


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