映画『月夜釜合戦』上映会にいって

以前宣伝をした映画上映会の感想を市民運動のニュースレターに書きました。以下。

528日、釜ヶ崎が舞台の喜劇映画『月夜釜合戦』(佐藤零郎/2017年)上映、併せて、監督の佐藤零郎さんと女性史研究者の村上潔さんの対論企画を、野宿者支援に関わる学生有志が主催し、私も手伝いつつ参加した。
ヤクザの跡継儀式に必要な盃(釜)がなくなり、それを探して街中の釜が漁られる争奪戦が本作の軸となる。ヤクザという限られた共同体内でのみ通じたコードが失効し、金銭、あるいは(争奪の最中に死んだ父親から盃を渡された少年にとって形見、その後、私娼のメイとゴロツキの仁吉の下で生活する際にはランドセルへ転用されるように)、(擬似)家族の象徴といったコードにさらされ釜は流動する。これは三角公園において活動家が守っているデカい釜にもいえる。南北朝時代における三種の神器の流転を描いた花田清輝の歴史小説を彷彿させるように、まさに時代の転形期を(再開発で大きく変容し野宿者排除が進む釜ヶ崎も)、この筋書きは表しているだろう。そうであるゆえに、ヤクザ、釜共闘、拝金、それらに利用される上昇志向等の既存の価値観でもって自らを扮装する登場人物たちは、自らが時代錯誤であることを自覚するものもしないものもおり、その意味において悲劇的乃至喜劇的でありーマルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』において比較される仏独の旧体制論などを参照―、いささかステロタイプである。これは、かなり事態を客観的に俯瞰しえているようにみえるヤクザの跡継ぎたるタマオも、相手にされない警察へのすごみやメイへの言い寄り方において逃れられていないし、最後の「痛快な」暴動シーンを仁吉と共に笑いながら見てもだからこそ受動的である。また、こうした人物類型の多さが、観る側と観られる側の対話や特に非日本国籍者との関係における釜ヶ崎の歴史性の表現の幅を広げた面もあれば狭めた面もあるかもしれなく、議論は必要だと思う。
 歴史性との関係でいうと、トークで両者がそれぞれー佐藤さんはこの地域にあった燐寸工場と女工・街娼について、村上さんは水などの表象に注目し生命の再生産についてー、非常に長いスパンで物事をとらえる視座を提示していたことが印象的であった。上映会とトーク企画については詳細な報告を何らかの形でだしたい。

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