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【4-0723】エベレーターを愛でる

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。

関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

3歳児クラスの担任をしている。3歳児クラスというのは、4月の時点ですでに3歳になっていて、次の誕生日がくると4歳になる子たちのクラスだ。

3〜4歳になると、段々コミュニケーションの手段のメインが言葉になってきて、級友が“偶然その日その時居合わせた他人”から、“お友だち”という存在になっていく。「先生に言うからな!」みたいなケンカの仕方を開発したり、それぞれの筋を通さないと腹が立つみたいなまるで大人のような気持ちのやりとりをしたりしている。もう赤ちゃんじゃなくなってしまって久しいけれど、感心するくらい子どもたちの成長は早い。

そんな成長著しい子どもたちが「エレベーター」を言えずに「エベレーター」と言う。今日、部屋で何気なく子どもたちの会話に耳を傾けていると、「ここはエベレーター」「エベレーターで上がるんだよ」とちょっと早口になりながら夢中になって語っていた。ああ、なんて可愛いのだろう。しばらくの間は「エレベーター」と言わずにこのまま「エベレーター」と言っておいてほしい。

この「エベレーター」は今しか聞けないのだ。一度「エレベーター」と言えた人間は、二度と「エベレーター」とは言わない。あの子たちの「エベレーター」は私の今の宝物なのだ。

私もとても小さい頃「いただきます」を言えずに、「いたまたちゅ」と言っていた。なぜそんなことを知っているかというと、私の家族は私が小学生の頃までずっと「いたまたちゅ」と言っていたからだ。当の本人が「いただきます」と言う横で、嬉しそうに「小さい頃はいたまたちゅって言っとったとよ」と言いながら。当時の私は、過去のエピソードを聞きながら、「おお、おお、いつまでもイジってくるやん」と思ったものだったが、今になってわかる。あれはイジっていたわけじゃなかったのだ。「いたまたちゅ」と自分で言うたびに、「いただきます」も言えないほど小さかった頃の私を思い出して愛でていたのだろう。

「エベレーター」もいつかは「エレベーター」と言えるようになるだろう。その日まで私あと何回「エベレーター」を聞けるだろうか。指摘すると直ってしまいそうなので、静かに聞き耳を立てて愛でていこうと思う。

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴