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【2-1024】卑屈を飼いながら

あのとき私が卑屈でなければ、違った未来があったかもしれない、と思う過去がいくつかある。全てをこじらせてしまった原因は私の卑屈さにある、と思うようなことも。それさえなければ、もっと良い結果になったに違いないと思ってしまう。

とは言え、自分の卑屈さをかなぐり捨てることができるとは到底思えない。私に根付く卑屈さはそんな生半可なもんじゃないだろう。卑屈でいるときの苦痛は本当に辛い。周りの人にもその影響が出る。それでも私はきっと卑屈を飼いながら生きていく。その予想にはうんざりするが、一方で卑屈さを捨てなければならないという世の中の風潮にもうんざりする。

そりゃあ、卑屈さがなければ自分も相手も生きやすい関係性になるだろう。でも、卑屈さって世界に対する自分の反応だから、反応を殺すことってなかなか難しいと思う。「どうせ自分は」というのは「本当は自分はこうじゃない(こうでありたいわけじゃない)」の裏返しというか、ねじれの位置というか。自分の中にある「あり/なし」「良い/悪い」「嬉しい/嬉しくない」のラインがそうさせている。だから、その反応は(あまり他人に害を与えたくはないけれど)自分ではしっかり引き受けてあげるべきなのではないか。

卑屈さをわざわざ捨てようとしなくても、そのラインに興味がなくなれば、その種の卑屈は生まれないし、逆にそのライン上で誰かに褒めてもらえたり、是と認められたなら、卑屈は少しずつ影が薄くなる。生きていく上では、なけなしの自信とか人からの支えを頼りにすることになるが、私の卑屈は私が何を良しとしているかを斜め45度から訴えているのだ。これが私だ。それならば気長に付き合っていこう。私はそう思っている。



いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴