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隣は何をする人ぞ

おはようございます、要小飴と申します。

それは、昨日のことでした。

職場からの帰宅途中、電車の中で私はnoteの記事を書こうとスマホをいじくっていました。そんな状態でも、向かい側の席や斜め前のドアのあたりの人たちの動きはなんとなく一駅ごとにチラッと見ている私です。そして、目的の駅の一つ前の駅のアナウンスが聞こえたとき、私はふと私の左側に座る人に目をやったのです。

すると、私の隣に座っているおじさまは、イヤホンをしてスマートフォンで、裸の女性が出ている映像をじっと観ていたのです。それも、映画のラブシーンなどではなく、本格的なというか、専門的なというか、とにかくそれを観たいが為に観るものを。

わお!

これはかなりの驚きがありました。私がスマホで文章を打つのに夢中になっている間、お隣は同じくスマホで、裸の男女に夢中になっていたのです。こんなことがあるのか!という珍しさと、これを知らなかったスマホに夢中だった時間と知ってから「ん、今見えたの本当にそれか?グラビアとかじゃなくて?」ともう一度ご本人に気付かれずに画面をちらっと見るタイミングを伺う時間のギャップかすごくて。

まあ、公衆の面前でそういうのを観るのってもしかしたら公然わいせつとかで罪になるのかもしれません。嫌な気持ちになる人もいるかもしれないので、もっと誰にも文句を言われないところで観たほうがいいよ!と思うのですが、街に出れば色んな人がいるもので、隣で何が行われているのかはわからないものです。

それでね、私は思うんですが、演劇だったり、映画だったり、ドラマだったり、小説だったり、そういう物語を楽しむものって、隣で何が行われているかわからないということを受け止めるために、あるのではないでしょうか。隣が何をしているかがわからないって、なんだか怖いじゃないですか。もちろん、何をしているかを知ることでもっと怖い思いや嫌な思いをすることもあるとは思うのですが、その前段階ですでに怖いんですよ。

物語って、そのへんの知らなくて怖いと思うことをつまびらかにします。「私」ではない「あの人」の事情を、「今」ではない「あの時」の事情を語って聞かせてくれるわけです。私たちはそれを見聞きすることによって、自分に重ねて共感したり感動することもあれば、「こんな人がいるのか」「こんなことがあるのか」と驚いたりもするわけです。そういうことによって、足の先から水に慣れるみたいにして、外界において、隣が何をしているかわからないとただ恐怖するのではなく、「こういうこともあるかもしれない」とか「こんな人に出会ったら素敵だな」とか予想や期待をする練習をしているように思うのです。

事実は小説よりも奇なり、と言うように、時に現実は物語を遥かに超えてドラマティックです。ですが、物語はまたそのドラマティックな現実を吸収して新しい物語を生み出します。それを見聞きして、人はまたそれを受け入れる体勢をつくり、また新たなドラマを経験する、という、永遠に続く螺旋を描いているように感じます。


なんだか大層な話になってしまいましたが、昨日のお隣さんにびっくりしたとともに、外に出ると面白いことにぶつかるなぁと思った、というお話でした。

それでは、今日はこのへんで。

要小飴

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(朝の電車で書き終えた!)



いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴