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【3-1121】好きなことしか

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

今日は芝居とはまた違う話。

「好きなことしかしたくない」「好きなことをして生きていく」よく聞かれる言葉だし、実際にそう願う気持ちは確実に私の中に存在していると思う。でも、これを実行することは結構難しい。

何が難しいって、それは生きていくのにはお金が必要だとかそういうことも勿論あるのだけれど、それよりも「好きなことをする」というのと、「嫌いなことをしない」というのは全く別のことだということだ。つい「好きなことをする」人生のために「嫌いなことをしない」に意識が持っていかれるのだけれど、「嫌いなことをしない」を頑張っていると、だんだん「何もしない」になっていく。

でも、「好きなことをする」ために本当に必要なことは「しない」ことではなく、「する」ことなのだと最近気付いた。

私の知人に「好きなこと」がいくつもある人がいる。いくつも、といっても、本人的にはそんなに多くないのだろうけれど、日常的に「好きなこと」がそんなにない私には、その人にはたくさん「好きなこと」があるように感じる。その人も「好きなこと」をして生きていきたい人のようなのだけれど、本当に、ちゃんと、「好きなこと」をしている。一日の隙間に、一週間の予定の中に、好きなことを入れ込む。寸暇を惜しむ、というふうに私の目には見える。これがとても羨ましい。

これまで生きてきて、人生は寸暇の積み重ねだということを、わりと実感している。ぼーっとしている間にここまで来てしまったなぁと唖然とするときがある。

私は、(これは単に私の考え方なので、この知人がどんな人生観の持ち主なのかはまだわからないのだけれど、)人生は、正味この一刻一刻をどう過ごしたかにある程度の内容があれば合格なんじゃないかと思っていて。「何者になるか」みたいな結果は死んでからじゃないとわからないし、それも、とどのつまり「何者って私でしかないだろ」みたいなツッコミで終わらせてしまいそうな気がする。

だからこそ、「好きなことだけする」というのと、「嫌いなことをしない」を履き違えないで、ちゃんと「好きなことをする」時間を意識的に増やしていかないといけない。なんだか、そんなことを考えるようになった。この知人のように能動的に毎日を過ごせたらいいなと思う。

誰のためって私のために私は生きているのだから。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴