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【4-0616】世界を見る

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。

関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

今日は観劇デー。


趣きも、テーマも、全然違う二作品を観たのだけれど、なんとなく共通するポイントを見出した。

それは、この世界を見ているのは「私」ということだった。

夕方に観た、九曜社プロデュース公演『da capo』では、登場人物が特定の時間をループする。ループしている本人にしかループは認識出来ない。しかも、このループは螺旋の上からすべり落ちるような仕組みで、並行世界がいくつもある。ループが当たり前のように知覚されている世界もあれば、今の私と同じようにループなんて事象に遭遇したことはないとみんなが思っている世界もある。

何というか、要はルールが自分にしか適用されていないのだ。見知った人たちの中にいても、自分の立っている地平が周りのみんなと違う。想像すると怖い。

そんなことが起きるから、何百回もいるはずの大好きな人がいない世界を繰り返したりする人もいる。あれは私は耐えられないだろうなと思う。最初の怪談よりもよっぽど怖い描写だった。

私の恐怖とは裏腹に、物語は終始可愛らしく、ハッピーな方向に収束していった。めでたしめでたしで日常へ繋がる物語。

でも、私は、このループの魔法があり得ないとは思わない。他人が自分と同じ世界線を生きているかどうかなんて、知り得ない。他人の生きている世界のルールは私にはわからない。

午前に観た、空の驛舎『かえりみちの木』。あの中に出てくる人たちも、みんな自分にしか適用されないルールがあったり、自分で名をつけたものに囲まれて生きている。病の人だけではなくて本当に全員が、自分の見つめる世界の中で生きていた。それによって辛い気持ちになっている人もいるが、それを含めて、受け入れようとしていた。

この作品の中で、諦めるということは一度その世界を受け入れることだ、というような言葉があった。その少し前にこの「諦める」という言葉が出たときに、私の目からわーっと涙が溢れた。諦めるという台詞で、人の心が必死に息をしていたから。諦めるという言葉の持つ一般的なイメージとは違う、前に進む呼吸。そうか、それかと私は思った。

私は世界を私の目で見ている。私にのみ適用されるルールの中で、私の地平を歩いている。こんなに寂しがり屋なのに。誰かに一緒にいてほしいのに。でも、どんなに好きな人でもその人は私ではないから、私の地平には立てない。私の目にうつる世界の中に立っている。ならば、目の前の世界をどうにか、まるごと受け入れようとしてみるしかないんだろう。こんなもんは、容易なことじゃない。でも、そうしようと思いながら、世界を見るしかないんだろうと思う。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴