20200815 ちょっとちょっと

「『この世界の片隅に』を見たいかと思って撮っておいたけど」と友だちに言われた。わたしはびっくりした。わたしはこの作品のブルーレイ・ディスクを持っていて、去年の夏にあなたと一緒に見たじゃないか。「そうだったかな」と友だちはしれっとしている。わたしは悔しくてちょっと拗ねる。ちょっと、とは表向きの姿で本当のところは相当腹を立てている。ちょっと!ちょっと!

「あなたが見ないならひとりで見るから(あなたのためにとっておいたのに、というようなニュアンス)」とかさらに言ってくるから、なんだよ逆ギレかよ、とか思ってしばらく黙っていた。わたしたちは流れ作業のようにビールを飲んで素麺を食べて、その流れのままそれとなく、友だちはその録画を再生し始めた。わたしは相変わらず口角を不自然なほど下げていたけれど、そろそろ口も疲れてきたのでゆっくりと元に戻して、テレビに顔を向けることにした。

終戦の知らせを聞く。近所のひとがやれやれ、と、当たり前のように生活へ戻ろうとする中で、すずさんは戻れない。最後のひとりまで戦うんじゃなかったのか、そのために、わたしたちは日々戦ってきたのではないのか、と、すずさんは声を上げる。戦争が終わってよかった、じゃないんだ、どうしてこのまま終わらせるのだ。わたしたちの骸を放ったままにして。わたしもうちの畳の上に正座しながら思った。気がつけば友だちもしん、となってそのシーンに見入っていて、おなじことを思っているのだな、と横顔を見てわかった。というかあなた、去年もおなじようなことを思って、おなじような顔をしましたけど。

わたしの母はよく朝のテレビの討論番組に夢中になっている。渦中にあるのかそうでないのかよくわからない、政治的な有名なひとがああだこうだと語り合うのを、母は「このひとはとてもわかりやすいことをいう」と喜んで見ていて、わたしはそんな母を見ていて白けてしまう。こういう、政治的、であるものやことに対してからわたしは常に離れたいと思ってしまう。政治には関心があるけれど、政治のことを考えようとすると、どこかのなにかに参加しなければいけないような気がしてしまって、そっと離れたくなってしまう。

ひとりよりも、たくさんのひとの協力のもとでは、大きなことが叶うのだろう。だけど「そうだよね」「そうだよな」と、自分の意見に頷かれてしまうと、わたしは俯いてしまう。いや、そうなんだけど、そうだったかな?たくさんのひとが一斉に頷き出すと、怖くなってしまう。

こういう感覚は、わたしがいま熱心にやっている俳句の世界にもある。芸術の中で議論のたびに運動めいたことが起こるのはしかるべきことなのかもしれない。だけれどそこから距離を置くだけで、異端、と呼ばれてしまうことを、とても嫌いたい。そもそもわたしたちってみんな異なるものだったでしょう。だからここにいるのでしょう。のけものにしないでほしい。

「この世界の片隅に」の作品がとても好きなのは、ある個人、にちゃんと光を当ててくれているところだ。すずさんだけを肯定しているわけではない(とわたしは感じている)ところも好きだ。わたしたちは片隅に生まれ、片隅で生きていく。それはそっと粛々に、という意味ではなくて、なにかしらみんな確固たる自分の居場所を持っているのだということだ、と思っている。それも、とても強い意志で、笑っていても、泣いていても、真顔でも、誰しもに無意識にある意志。

わたしは、集団ではなく、個人の物語として生きていきたい。でも少し思うのは、もし、あのひとの指に止まりたくなったら、わたしの指に止まれしてくれるひとがいたとしたら、それを素直に受け取って手を繋ぐ、そんなやわらかさも持ってゆきたい、と、ちょっとだけ、思っている。


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