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「飽きる」ことはちっとも悪くない。


「カナコさんが飽きないように協力する・・・」という謎の意見(多分その人なりの優しさ)をもらったので、「飽きる」について考えている。(暇か


【飽きる】多すぎたり、同じことが長く続いたりして、いやになる。「勉強に―・きた」「彼の長話に―・きた」 / 十分に味わったり経験したりして、それ以上欲しくなくなる。「牛肉を―・きるほど食べたい」 goo辞書


「飽きる」という言葉は、ネガティブな使われ方をすることが多い気がする。

飽きっぽい、三日坊主で終わっちゃう(=物事を続けることができない)、みたいなイメージで、「飽きる」のは辛抱足らないとか、続けるためには「飽きないように工夫する」ことが大事とか、そんな風に思っている人もいるようだ。


私は「飽きる」ことに関して全くネガティブに思えず、むしろ「飽きた」ということは、それに関して続ける意味がない、その状態から変化したいと思っているということで、「飽きたならどんどん変わっていけばいい」と思う。

もちろん「飽きない」も良い。

きっとそこには飽きない理由(楽しいとか面白いとか)があるのだろうし、たまたまそのことに関して飽きずに続けられるのはラッキーかもしれない。

飽きるも、飽きないも、それ自体に良い悪いはない。


なので、「飽きる」ことは単なる「事象」で、それに関して「辛抱強さが足りない」とか「続ける努力をしろ」とかは、全く別の次元の話である。


「飽きても続けなければいけない仕事」があったとしたら、「飽きる」ことを否定するのではなく、「続けられる仕組み」を考えるべきであると私は思う。

「飽きるのは前提、だけどこうすれば続けていける」というのは、気持ちの問題とか、本人の努力ではなく、「仕組みがどうできているか」である。


もしかしたらそれは報酬の多さかもしれないし、実際の作業とは別で楽しみを用意することかもしれないし、基準を設けて即した評価をしていくことかもしれないし、方法はいろいろある。

着眼点を、一人間の気持ちベースで考えるのではなく、そもそもの「仕組み」に持っていく。

特にいろんな人が関わってやるプロジェクトや、企画としては続けたいけど人間は固定しないものであるなら、属人的に考えすぎず、大枠の仕組みを作るのが大切だと思う。


「飽きる」ことに戻る。

誰だって、「すぐ飽きる」こともあれば「全然飽きない」こともあるはず。

10のことに興味を持つ人が9飽きても、1つ飽きずに続けることがある。逆に、はじめから1のことだけ興味を持ってその1を続ける人もいる。前者を「飽きっぽい」と見られがちかもしれないけど、「飽きっぽい」の前にそもそもが「興味の範囲が広い」ということだと捉えている。

この場合は、結果としてどちらのタイプも「1続けているものがある」という事実だけある。


また、「飽きたけど続けなきゃいけないから続けている」こともあるだろうし、「飽きはしないけど続ける意味がないからやめる」と判断することもあるだろう。

「飽きる」って、「継続するしない」とは本当は直接関係していないのだ。

「飽きる」周りに付随する様々な要素の掛け合わせがあって初めて、継続するしないが変わるのだ。


何が言いたいかというと、多くの人が関わる仕事やプロジェクトを進める際に「一個人の飽きる飽きない」などの属人的なものをベースにしたり、頼ったりするのは無意味で、「誰もが飽きることがある前提」で「全体として続けていく仕組み」を作ると、プロジェクト全体は人が例え入れ替わってもきちんと進んでいくよね、という話。

(個人のお店や自分中心のプロジェクトは自分の飽きる飽きないで決めても何ら問題ないけどね)


ということで、うまく本人に伝えられなかったので文章でアンサー。


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