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誰かのことを想う写真

数日前に撮った満開の梅は、降り続く雨で花びらが落ち、地面は雪の積もりはじめのように白くなっている。本当に写真は同じものは写せないし、撮った刹那のさなかでしかないことを知る。

春が近づくと毎年思い出す人がいる。
次男がまだ赤ちゃんの頃に文通していた人。互いの写真が好きだったので、写真の話やお互いの家族の話をしていた。子育て真っ最中だったので、同じ趣味、同じ環境を語れることが何より息抜きになっていた。
その人は東北に住んでいるので春の訪れが遅く、先にこちらに花が咲き始めた便りをし、夏が来る頃はこちらの季節のスピードは追い越され、一足早い秋の深まりを教えてもらった。その年の春が来ることをいちばんに伝えて、桜の写真自慢をすることにワクワクしていた自分がいた。暗室の話をして、向こうも暗室デビューをして、CanonのF-1だったか立派なフィルムカメラを使っていた彼はいつの間にかわたしの真似をしてローライフレックスの2.8F、しかもプラナー!を使い始めていた。

いつか写真で2人展をしようと話していたのが、こちらが三人目が生まれて、ニコンで個展をする頃には疎遠になってしまった。
よくその人が写真は趣味であって職業ではない、と言っていたことにわたしは温度差を感じてしまっていたんだと思う。
わたしにとって写真はお金を稼ぐ手段でもなんでもないけど生きがいで、自分にとっての中心で、時には家族よりも大切なものだったから。
今はよく分からないけれど。

それでも、誰かのために写真を撮ったり、誰かに向けて文章を書くことは楽しかった。
今日はあの写真を見せよう、撮ったものを報告しようとする時間はその時の人生を実りあるものにした。長く生きてくると、だんだん物事に意味づけをするようになってくる。
この場所は誰といつ行ったとか、この食べ物は誰が好きだったとか、物に=人との思い出や関連付けが完成してしまう。
昔、旅先で出会ったインド人の青年は、満月を見ると死んだ母親を思い出すので涙が出るから月を見れない、なんて言っていた。

他人にとってなんでもないことが、その人にとって何かを思い出す特別な景色だったりする。桜、山、海、一枚の写真が人生で出会った様々な人を想起させる。今はそんなふうに誰かに見せたいと思って写真を撮ることはないけれど、誰かを想って撮る写真は良し悪しは別にして記憶に残る写真だと思う。

毎年、春の花が咲きだすとその人の撮った写真を思い出す。子どもが手に持った白い花を差し出す写真は今も部屋に飾ってある。
誰かの想いに支えられて生きている。

ちょっと今日は離脱症状強くて仕事中イライラしすぎて疲れてしまった。湯船でうとうとしながら打ったので誤字脱字あったらすみません。


SIGMA dp1 Merrill  ISO100


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