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いつもと違うことはかわいそうなのか  ~卒業式は義務教育最後の学びの場~

「#みんなの卒業式」というお題に反応したいと思います。少し前に「コロナ休校で得たもの失ったもの」という内容のnoteを書きました。再編・追記する形で、卒業式についての考えを書いてみたいと思います。

End教室

 タイトルの問い「いつもと違うことはかわいそうなのか」に、中学3年生の担任の私が答えるなら、「そうばかりとも言えないよ」です。

 「いつもと違う」ことによる「学び」があると思うからです。今回、私たちは、「いつもと違う」卒業式から多くの感情をもち、その意味を考え、自分の人生や社会に引き寄せて考える機会をもてたのだと思います。

 「いつもと違う」ということ、言い換えれば、私たちは「特別な時間」を過ごしたと思うのです。

 私たちの卒業式は、間違いなく、「義務教育最後の学びの場」でした。


 「いつもと違う」ことを感情的にとらえ、嫌がると、人は不安から利己的になるような気がします。マスクの高価格の転売、トイレットペーパーの買い占め、町から消えるコメや盗まれる消毒薬…。文句、他人への攻撃や責任転嫁。なんだかネガティブな方向へどんどん進んでしまいます。

 2019年度、私たちの卒業式は確かに「いつもと違う」ことになりました。だけど、パニックになるのではなく、これまでと比較するのではなく、現実を見つめて、仲間と共に、今できる最大限の行動は何かを考えることが、この「特別な時間」を充実させてくれたと思います。


 私は今年度、中学校3年生の担任を務めました。1年生の時から、3年間のおつきあいです。

 この子どもたちは、今年度の夏も猛暑の影響で、体育祭が縮小されたり開会式を前日に行ったりするなどの「いつもと違う」対応を迫られる経験をしました。

 そして、最後の最後に、「休校」。規模を縮小した卒業式を終えた今、振り返れば、そこには私たちだけの「ドラマ」がありました。


「休校」は突然に…

 2月27日の夜に総理からの「休校」要請がありました。私たちに残された日にちは28日のみ。教室のカウントダウン・カレンダーは「あと3日」というところでした。
 28日の朝、登校した子どもたち(卒業生)の表情は複雑な感じでした。その時点で市教委からの通達は未達。基本的には、学校から生徒に話せる内容はゼロの状態でした。
 でも、その日が最後になる可能性が大。生徒と話す時間も限られるだろうという見通し。卒業式も、まだどうなるかわからない。卒業生とは今日でサヨナラという可能性も大。

こうした中で、この日の朝の会で、私が子どもたちに「これで全員と会うのは最後かもしれない」と思いながら話したことは、次のことでした。


1) あと3日あると、誰もが疑っていませんでした。でも、突然、いろいろ理由はあるにせよ、他人の意思によって「終わり」を告げられました。でもね、「ある日、突然、終わりがくる」、これは人生につきものです。「今日、私たちが生きている時間は、昨日亡くなった誰かが生きたいと願った明日」という言葉もあります。
私たちは、大切にしたい時間に「終わり」を告げられました。これが、喪失の体験です。「終わり」がいつなのかは誰にも分からないけれど、あらゆることに「終わり」があることを実体験しましたね。これからの生き方に、この体験を活かしてください。悔いのない、いや、悔いはあっても納得できる生き方がいいなと、私は思います。自分の頭で生き方を考える機会にしてください。

2) 人生には、今回のように、理不尽なことがあります。悲しんだり、怒ったりすることもあっていいです。でも、起こったことにイライラしたり、誰かのせいにしたり、誰かを攻撃するのではなく、どうしたら解決できるか、乗り越えられるか、優先順位は何かを考えられる人になってください。今回は、みなさんの健康と命が最優先の決定です。自分の命を守ることが他人の命の守ることになります。他人の命を気に掛けることが、自分の命につながります。公立高校受験が間近です。自覚して行動してください。

3) こうなったら、この状況をポジティブに捉えましょう。なかなかできない体験をしているのだと。いつもと違う雰囲気と緊張感の中で、今日ラストになるであろう1日を大切に過ごしてください。ダーウィンも言ってます。「変化に対応できたものだけが生き残る」って。


市教委の通達は、卒業式を、やる!

 昼近くになって、市教委から通達がきました。当校の卒業式は規模を縮小し、内容を短く変えて当初の日にちで行うことになりました。卒業生にそれが知らされると、歓喜の声があがりました。職員の中では、東日本大震災の時のように、年度を跨いだ卒業式も可能性の中に含めていたので、この知らせは、子どもたちにも職員にも喜ばしいことでした。実は、この日、届く予定だった卒業アルバムも配送の遅延で届かず、今日でお別れというには、あまりに環境が整っていなかったのです。


何があってもいいように

 卒業式の実施が決まったものの、コロナ・ウイルス関連の情報は刻一刻と変わっていきます。決して楽観できる方向には進みません。そこで、「保険」をかけておくという意味で、この日のうちに卒業合唱を撮影することを管理職に提案し、了承されました。


 卒業合唱は、卒業の全てを象徴する合唱だと思います。中学3年の、その時の自分を鮮やかに表現するものだと思います。「今」を逃してしまうのは、あまりにかわいそうだと思いました。


 また、もし、これからまた状況が悪化して、卒業式が再度中止されたり、延期されたり、合唱を禁じられたりした場合に備えておく意味もありました。そんな時には、動画を加工した上でインターネットで保護者の方に観ていただくこともできます!撮るっきゃない!というのが3年生の担任団の思いでした。まさに「変化への対応」です!


 合唱用の台を用意して!とお願いされた卒業生たちは、以心伝心、合唱がある!と瞬時に察して、怒涛の勢いでステージの準備を行いました。


 そして、28日の放課後の時間に、無観客試合さながらの、私たちだけの卒業合唱がビデオに収められたのです。
 歌い終わって、涙する生徒あり、爆笑する生徒あり…とにかく、やれることはやった!という充実感が体育館にあふれていました。この日も「私たちの卒業式」と言っていいような気がするのは、私だけではないでしょう。


「いつもと違う」卒業式から学んだこと

 私たちは3日間という最後の時間を失いました。ですが、この非常事態を受けて、子どもたちは、今の状況を理解し、できることに全力を尽くすことができました。その姿を見られたことは、3年間、この子ども達と共に学んできた私にとって、本当に嬉しいことでした。

 間違いなく子どもたちは、それぞれに、この事態について自分なりの意味を考え、行動するということを学んだと思います。

 数日後、内容と規模を縮小した卒業式が行われました。会場の準備は20名足らずの教員総出で行いました。学校になかなか来られない生徒のための別室の式場も準備しました。「いつもと違う」全て、教員「手作り」の卒業式です。

 放送機器の調子が悪いというアクシデントも発生しました。そこで、音楽の先生に卒業生退場の際に、ピアノの生演奏をしてもらうことにしました。私たちができることは何でもやろう!という気概に、先生たちは燃えていました。

 リハーサルとして、生徒が誰もいない式場でピアノを弾いてもらいました。誰もいない通路に、卒業証書を手に、退場していく子どもたちの姿が見える気がしました。


義務教育最後の学び

 2019年度の私たちの卒業式は、過去に経験のない「いつもと違う」卒業式でした。私自身、生徒としても教職の身としても、初めての経験です。

 切迫した状況の中で、選択をし、推測をし、関連付けて考え、優先順位をつけて、整理をしながら自分たちの価値観をつくり、意味をつくり、吟味して実行していく。これらのスキルを、私は授業で生徒に教えてきたつもりです。子どもたちにとっては、授業のRW(リーディングワークショップ)やキャリア教育の中で学んだことを実践する場でもありました。私の目から見ても、子どもたちは、しっかり考えて行動していたと思います。

 「いつもと違う」私たちの卒業式は、義務教育最後の学びの場として機能した、最高の卒業式だったと、私は思っています。

 卒業生のみんなへ。

「いつもと違う」環境の中で、本当に頑張ってくれました。

 そして、

 「特別な時間をありがとう。」(合唱コンクール EXILE「道」より)


最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。感謝申し上げます。

 

 







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