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親目線で読んでみた「君たちはどう生きるか」

 本書は、今から80年前の1937年に出版され、2017年に漫画化されるなど、時代を超えて多くの人に愛されてきた書籍だ。15歳の主人公「コペル君」の若者らしい自由な発想、学校でのいじめや友人関係について、母親の実弟である「叔父さん」が人として大切な事について語り、導いていくストーリーだ。
 読者は読んでいくうちに自然とコペル君側に立ち、青春時代の記憶を重ね合わせ、叔父さんの言葉に救われ学びを得る。1歳と3歳の子供を育てる私は、15歳の主人公に自身を投影しつつも、次の瞬間には、果たして自分は叔父さんのような言葉をわが子にかけられるだろうか?と考えてしまう。さらには本書の論評では殆ど語られる事のない、お母さんとコペル君の距離感にも大きな気づきがあった。
 親目線で、「君たちはどう生きるか」を読み、わが子の成長の為に何が出来るのか。思った事を書き記しておきたい。

素晴らしき瞬間をどう残してあげるか

  デパートの屋上から東京の街を見下ろしていた時、コペル君が「自分が分子のように感じる」と言った発言がコペルニクスの地動説のようだと思った叔父さんが、その出来事以降
「コペル君」呼ぶようになった。
 子供のうちは皆、自分中心な天動説のような考え方で、大人になると地動説的な物の考え方になっていくのだが、コペルニクスの時代の大人達は既存の概念である天動説にかじりつくあまり、本当の宇宙の事が長い間分からなかった。
  コペル君は子供にも関わらず今日、地動説のような考えをした。この経験が深く跡を残してくれる事を願って、叔父さんは「コペル君」というニックネームをプレゼントしたのだ。
 子供らしい素直な発想に心が和んだり驚いたりする瞬間はよくある。しかし、ここまで深く考察し、その一瞬を子供の為に何かに残す事をしてきただろうか。
 最近、食事中に娘が急に抱きついてきた。「御飯中やで!」とたしなめようとすると、「ママ抱きしめてあげるね」と言ってきたのだ。今まで私は、子供を「抱っこしてあげている」と、まさに私が自分中心的な考え方をしていて、娘が「抱っこしてくれた」と相手側に立った考えが出来ていなかった。そして、娘を産んで3年4カ月経った今、「私は娘を愛している」だけではなく、初めて「娘は自分を愛してくれている」と気づけたのだ。
 日記を習慣にするのが苦手な私。簡単なのは保育園の連絡帳だ。誰かが読むと決まっているものには取り組める。連絡帳の自由記入欄に、忘れたくないエピソードを書き記す。そしていつか子供が読んでくれたらと思う。
note、ツイッター、インスタ・・・様々なSNSも、記録に持ってこいだ。映える写真やイベントの記録だけではなく、二度と繰り返す事のない、残してあげたい瞬間を書き記していきたいと思う。

取り返しのつかない失敗から立ち直るには

  コペル君は、友達がいじめられた時に助ける約束をしていたが、いざその場面になると怖気づいて約束を破り、友達を裏切ってしまう。その事を深く後悔し、高熱を出してしばらく学校に行けず一人で悶々としていたが、見舞いに訪れた叔父さんについに打ち明ける。
  叔父さんはこう語る。「一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、皆一回限りのもので、二度と繰り返す事はない。あの時こうしておけば良かったと後悔したからこそ、人間として肝心な事を心に沁みとおるようにして知ったのだ。人間の苦しみとは本来あるべき状態から外れた時に起こるものだ。人間は自ら立ち直る事が出来る。今は友達と仲直りできるかなどは考えず、裏切ってしまった事を深く反省し後悔している、謝りたいという気持ちだけを友達に伝えるべきだ。」

親は子供が悩みを打ち明けられる存在か?

  コペル君が友達を裏切った場面では、誰しもがコペル君に自分を重ねて一緒になって落ち込み、叔父さん言葉に救われただろう。しかし私が注目したのは、この時のお母さんの立ち居振る舞いだ。息子はただの風邪ではなく学校で何かあったとすぐに気づくが、「何があったの?お母さんに話してみなさい」と詰め寄る事はなく、ただただ優しく看病をする。そして叔父さん経由で事情を知った後は、「なんでお母さんに話してくれなかったの」とは言わず、むしろその事は伏せ、「学生の時、石段でお年寄りの荷物を持ってあげようと思ったのに、声をかけるタイミングを逃して結局手助けできなかったの。今日みたいな天気の日に何故か思い出すのよ」と自分の後悔エピソードを伝えるのだ。コペル君は、叔父さんから事情を聴いたに違いないお母さんが、さりげなく励ましてくれた事に感謝する。
 私が小学校や中学校で度々いじめに合ってきたが、母に打ち明けた事があるのは一回だけだ。どちらかというと消し去りたい「いじめられている」という事実を、これからもずっと一緒に暮らしていく親と共有したくなかったし、学校の先生は自分の中で信頼できる存在ではなかった。
自分は辛い事があっても親に打ち明けなかったのに、いざ親の立場になったら、子供が辛い時には話を聞いてあげられる、叔父さんのような存在で居たいと思っていた。しかし、コペル君とお母さん、叔父さんの関係を見ていて、さらに自らの青春時代を振り返った時、子供には、親でもない、学校でもない、第三の居場所(サードプレイス)が必要なのではないかと感じた。自分の場合は学校帰りの学習塾がサードプレイスだった。学校と切り離された人間関係がある塾では楽しく友達と過ごせていたので、学校での嫌な事がリセットされて一日終わる事が出来ていた。コペル君にとってのサードプレイスは叔父さんだ。
 コペル君の母親は、夫を亡くしシングルマザーとして一人息子を育てている。叔父さんはお母さんの実弟なのだが、お母さんと弟との良好な関係が無ければ、コペル君と叔父さんの関係は築けなかっただろう。本書からの学びは、子供にとってのサードプレイスの大切さだ。その為に親が出来る事は、自らの親族関係や地域コミュニティといった人的ネットワークを普段から大切にしておく事だろう。
  再びコペル君のお母さんの行動を振り返ってみよう、親族という自らの人間関係を整え息子のサードプレイスを確保、その上で自分の助言は必要最低限に留める。ご飯を食べさせ、病気になったら看病といった普通の親としての関わりを基本としている。
  青春時代の自分にとって、親はどういう存在だったか思い返してみた。親とは、外の世界で何があっても、一日の最後に帰ってこられる安全地帯なのではないかと思う。

家庭に必要なのは「密室」

  もう一つのキーワードは「二人きりになれる密室空間」だ。コペル君と叔父さんが会う時は大抵二人だ。学校と習い事で多忙な現代の子供にとって、誰かと二人きりになれる空間は貴重だ。私は幼少期から思春期にかけて、親と二人きりになるタイミングは年に数回もあっただろうか。3人の子供の世話と亭主関白な父の対応で母は大忙し。夜や休日など父が居る家の空気はピリついていた。いじめの事を打ち明けた時は、たまたま家に誰も居らず、学校での事を思い返して涙が溢れた時に丁度買い物から母が帰ってきたというタイミングだった。事情を話し終わった後、母から「いっその事その子の家に電話して、怒らせたならごめんって謝ってみたら?」と大胆なアドバイスを受ける。当時は緊急連絡網が各家庭に配られていたので、いじめっ子の家に電話する事は可能だった。驚きの提案内容だったが、私は従ってみた。結局なぜいじめているのか?について説明はもらえなかったし、その後いじめが完全に無くなった訳ではないが、自分でやれる事はやったとスッキリした気持ちになれた。  

 その後の人生で困難が生じた時、「自分で答えが出せない事は、悩んでいても仕方がない。まずは動いてみよう」と開き直るのが早いのは、あの時、母の助言に従って動いてみた経験があるからかもしれない。親と子供の二人きりの時間が、子供の人生に深くかかわる何かを生み出す事もある。例え子供が何かに悩んでいそうなのに打ち明けてもらえなくとも、そもそも悩みとか関係なくただ雑談するだけでも良い。子供と二人きりの時間を積極的に作っていこうと思う。

80年前から変わらない親の想い

  あとがきを読んで私は衝撃を受けた。「君たちはどう生きるか」が出版されたのは太平洋戦争前、日中戦争の発端となる盧溝橋事件が発生した1937年であるという事。映画や小説から感じていた戦時中の一般人は、軍国主義染まった学校教育やメディアにある種洗脳されているイメージで、今の私達とは全く相いれない遠い存在に思っていた。しかしたった今私の心を打った本書が、その時代に世に出て、実際に手に取り子供に読ませた親たちの存在を知り、遠い存在だった戦争下の親たちと通じるものを感じた。
当時の時代背景と、子を持つ親たちについて思いを馳せてみた。
  本書が出版された1937年にコペル君と同じ15歳の子を持つ親を仮定しよう。彼等が子を授かったのは1915年(大正11年)。大正デモクラシーといった自由な風潮の中でコペル君たちはこの世に生を受けたのだ。しかし同時に転がるように軍国主義に傾いていく日本の中で、子供をどういう人に育てていけばいいのかという親たちの不安は計り知れない。そんな中で本書を手に取った親たちの「子供を取り巻く環境が変わっても、人間として大切な心を忘れないで欲しい」と願う気持ちが80年の時を経てひしひしと伝わってきた。1930年から約80年を経た2017年、「漫画 君たちはどう生きるか」が発売され、1年足らずで累計発行部数が200万部を突破。80年前も現代も、人間にとって大事な価値観は同じなのだと気づかされた。
 令和に生きる我々は、未来の人達から見たらどう映るだろうか。この時代における後世の評価がどうなるか分からないが、「君たちはどう生きるか」が未来の人達にも読まれ続けているならば、それこそが我々親たちが子供を一生懸命育てた証なのではないだろうか。

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