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講義note:スコッチウイスキーの表象文化論 第2回 (神奈川大学国際日本学部 教授 中村隆文)

つい最近、拙著『スコッチウイスキーの薫香をたどって――琥珀色の向こう側にあるスコットランド――』(晃洋書房、2021年9月30日刊行)を上梓したので、その内容に少し触れつつ、食文化としてのスコッチウイスキーの研究の意義について、第1回から第3回の各講義で紹介してゆく。お酒にはあまり興味がない人も(あるいは飲めない人も)、スコットランドという国を知るための一つのきっかけとして、また食文化研究というものにどういう意義があるのかその理解のためにも、お目通しいただければ嬉しい。

講義第2回 ウシュケバーとアクアヴィテ

第2回である今回は、ウイスキーの語源に言及しながら、スコッチウイスキーがどのようなブランド力をもっていったのかを以下論じてゆく。

・薬用酒から密造酒、そして、表舞台へ

ウイスキーはケルトの酒と言われるが、少なくとも蒸留酒としてのそれは古代ケルトではなく、アラビア由来の蒸留器(アランビック)が広く使用されるようになった中世以降のものである。それはゲール語でいうところの生命の水である「ウシュケバー」と呼ばれていたのだが、同時に、ラテン語で同じく生命の水を意味する「アクアヴィテ」とも呼ばれており、公式文書などでは後者の呼び方が頻繁になされていた。1494年のスコットランド王ジェイムズ4世の財務帳簿Scottish Exchequer Rollsには「アクアヴィテをつくるための8ボル(約500kg相当)のモルト」が托鉢修道士のジョン・コーに渡され、それをもって作られたものが王室への贈呈が行われていたことが記されている。このジェイムズ4世は1505 年にエディンバラの理髪外科医ギルド(the Guild of Barber-Surgeon)にアクアヴィテの製造と専売を許可しており、この時代の大麦の蒸留酒は国家的管理のもとに置かれていた医薬品でもあった。ちなみに、このジェイムズ4世は、イタリアの錬金術師ジョン・ダミアン(John Damian)を1501年に宮廷に迎えており、ここから推察するに、当時のアクアヴィテとは国家が管理する錬金術的な薬用酒であったと考えられる。

 しかし、スチュアート家のジェイムズ6世が1603年にイングランド王ジェイムズ1世として即位してからイングランドとの同君連合が進み、アン女王統治下の1707年、完全にグレートブリテン王国として吸収されてしまい独自のスコットランド王国ではなくなってしまった。そこからは、イングランド主導のブリテン政府・ブリテン議会の政策のもと、そうしたアクアヴィテや材料のモルトに課税されることも増えていった。これに反発したスコットランド人たちは山奥で密かに、彼らの言語でいうところの「ウシュケバー」を作り続けいたわけである。もちろん、そこではブリテン政府が派遣した徴税吏が税をとりたてにきて、買収したり、密かに隠したりの攻防戦が繰り広げられ、17世紀半ばから18世紀初頭にかけては、密造・密輸がはびこった時代でもあった。この時期、とりたてにきた役人から隠すために樽に入れておいた(透明な)原酒が、偶然にも琥珀色に染まる形で熟成され美味しくなった、と言われている。まさに、反抗心と偶然とは生み出した琥珀色の液体というわけである。

ダルモア蒸留所の樽貯蔵庫
ダルモア蒸留所の樽貯蔵庫

・琥珀色の高級酒へ

その密造・密輸の時代は1800年代、グレートブリテン王ジョージ4世のときに終わりを迎える。彼はイングランドにおいてはギャンブル・女性・お酒におぼれる放蕩者としてすこぶる評判が悪かったが、密造・密売されていたスコッチウイスキーには目がなく、1822年にスコットランドに行幸したときもウイスキーを嗜んだことで有名である。彼は特にスペイサイド地方のグレンリベット蒸留所のそれを愛しており、1824年、同蒸留所は初の公認蒸留所ライセンスを賜った。それ以降もさまざまな蒸留所が公認のものとなり、ウイスキー産業が盛り上がってゆく。ここから、かつての密造酒であったウシュケバーことウイスキーは、市民だけでなく、王侯貴族も広く楽しむような「スコッチウイスキー」としてそのブランド力を高めてゆく。

ラフロイグ蒸留所
ラフロイグ蒸留所

 もちろん、公認ライセンスをもらったからといって、スコッチ業界は順風満帆ではなかったが、それでもスコットランドらしく(?)我慢と工夫で乗り切ってきた。1900年代には世界大戦のなかでイギリス政府の禁酒主義的政策の標的となり、市場に出回る酒量を減らすべく「スコッチウイスキーは最低2年間は倉庫に(樽詰めして)しまっておくこと」と命じられたが、しかし、それはかえってスコッチウイスキーに「熟成された琥珀色の高級酒」というブランドイメージを与えた(現在は法律により、3年以上の熟成が義務付けられている)。また、1920年から1933年までのアメリカの禁酒法時代には、アメリカへの輸出量が減って大打撃を負ったスコッチ業界であったが、アイラモルトで有名なラフロイグ蒸留所は、そのピート(泥炭)の香りと、ヨード臭漂う独特なウイスキー「ラフロイグ」を、薬品と称してアメリカに売り込み、認可されたという逸話もある。他にも蒸留所ごとにいろんなドラマはあるが、いずれにせよ、苦難の歴史のなか、人々がそこに関わるなかで努力と工夫、研鑽を積み重ねてきたからこそ、今あるようなスコッチウイスキーの世界ができあがったわけである。

 では、今回はここまでとし、次回(最終回)はこうした食文化についての「学び」が、どのような意義があるのかについて学術的観点から解説したい。
                                (つづく)


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