創業までの物語
頑張っているお兄さん、お姉さんが幸せそうにみえなかった時代
亡くなった私の父は中学校の教員でした。社会科が専門だったようですが、私の記憶にあるのは、特別支援学級の担任として学校に通う父の姿でした。
その当時、特別支援学級(通常の学校にある特別支援学級)はなかよし学級とよばれていました。父が勤務している学校は田舎の学校で、夏休みこどもたちがいない学校によく連れて行ってもらいました。夏休みですが、学校の部活動や学校に出てくる学生もいました。
私の母は産後の病いで、私は幼少期に母との思い出はあまりいい思い出がありません。今であれば、児童相談所に引き取られることになっていたかもしれませんが、父が家に帰ってくるまではじっと家の中で耐えていました。怖い時には、押し入れの中に隠れて過ごす日々、夏休みは父に連れられて学校に行くことがとても楽しみだったのです。
私は、父が担任をしている特別支援学級で、優しいお兄さんやお姉さんに勉強を教えてもらったり、遊んでもらったりしながら過ごす時間が楽しみでした。
集団就職
当時は、中学を卒業したら働く道にすすむ学生が多い時代でした。父が担任していた学級も同様に集団就職という道を選択する人が多く田舎をはなれて都会に就職していきました。当時の私の記憶では、地元に残る人より関西や東京といったところまで上京しての就職が多かったように思います。
帰ってきて再会するお兄さん、お姉さん
お兄さん、お姉さんたちは突然帰ってくることが多く。ひどい怪我をしていたり、病気になっていたり、お姉さんはお父さんのわからない子どもと一緒だったり・・・そんな姿をみて父は泣いていました。勿論帰ってきたお兄さん、お姉さんも父のところにきて泣いていました。父はお兄さんやお姉さんの働いていた職場を訪れて頭を下げてきていたようです。時には土下座までして、お金を投げつけられたりもしていました。あんなに私に優しかったお兄さんやお姉さんが私には幸せそうにみえなかったのです。しかも、身近にいた他の大人より幸せそうに見えなかったのです。頑張って働いても、なんだかやるせない、理不尽だとずっと思ってきました。しかし、その一方で、すべてのお兄さんやお姉さんが理不尽な姿になっているわけでもないことも知っていました。働いているお店で頑張りを認めてもらい暖簾分けをしてもらっているお兄さんもいたのです。務める企業、職場によってこんなにも差があるのかと子ども心に強烈な印象をもったものです。
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