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三十歳、月読み(二)

2月12日(月)

 宣言通りにstand.fmにて収録。1月8日ごろから読んでいる本『水中の哲学者たち』(永井玲衣著)をフックに、最近の気づきを話す。どんなことばを用いて話したのかまるで覚えていないが、「どんな問いからも哲学が始まりうる」ということ、「『他者』とは『他者』のままでいたいと思っている」ということ、「相手と自分の関係性を考慮せずにただ“問う”ことを可能にする“哲学をする”という行為が自分にとてもフィットしている」ということなどを話した。
 その後、慌ただしく準備をして家を出る。友人が10年ぶりにブラスバンドで演奏するというので聴きにいくことにしていた。ちょうど、ファゴットとトロンボーンの音色が、それから、音の重圧で肌がびりりと痺れるようなあの感覚が、恋しくなっていたところだったのだ。ダメ元で母を誘ったら行きたいというので、会場の最寄駅で待ち合わせた。
 千葉の中学校で30年以上指揮を振った2名の先生の還暦祝いコンサートに、170名超の教え子が集まったと聞いて驚いた。背もたれのない丸椅子がステージに敷き詰められ、グランドピアノの代わりにキーボードが——コントラバス側に——置かれていた。
 『ディズニーメドレー』でソロを吹いたトランペットの彼の、ゆたかな表現に泣けた。吹奏楽的なきれいさを壊さないぎりぎりのライン上に彼独自の遊び心が垣間見えた。『東京ブギウギ』でダンスをした小柄な女性の伸びやかな表現にもぐっときた。全身がよろこんでいるような彼女の動きをいつまでも見ていたかった。
 最後の曲を残してそそくさと退席。2時間半の帰路を、頭か胸かおなかの深いところから聞こえてくる余韻を聴きながら過ごした。帰宅してからも音の中にいたかったので、stand.fmで弾き語りをライブ配信。すると、リスナーさんから「最近は良い言葉に出会いましたか?」とコメントをもらって心がふわりと浮くのを感じた。その問いがとても好きです、と言いながら、ちょうど「哲学」ではなく「哲学をする」ということが自分に近づいてきていて、私はstand.fmでも宿の管理人としても、ずっと、「人と哲学をするがしたかったんだと思う」という話をした。自分の口から、自分では気づいていなかったこと——けれども自分から逸脱していないこと——がみるみる流れ出て、驚きつつも嬉しかった。

2月13日(火)

 朝7時からの勉強会を終え、さわやかな気持ちでスペイン語の勉強と読書。明日で学習継続200日になるらしい。楽しい。9時から1時間ほど画像作成の仕事をしたのち、ぼーっと過ごす。11時から週次の勉強会に出席するも、なんとなく集中力が保たずカメラもオフで、ただ「出席」しただけになってしまった。能動的に「参加」するわたしであれよと思う。
 このところずっと鼻の調子が悪く、朝起きたときや一日の終わりに鼻の中でかさぶたのようなものができている。鼻呼吸をするときにそのかさぶたの端がぱたぱたとなびくので取り除くが、そのたびにまたどこかしらが傷ついて、エンドレスかさぶたとなる。これを繰り返している。乾燥のせいか、副鼻腔炎の再発か。そろそろ耳鼻科に行ったほうがよさそう。
 そんなことを考えていたら、勉強会の画面がホストによって閉じられていた。昼の支度をする。朝ごはんをプロテインと水分だけにしてから久しく、食事は昼から摂るようになった。先月下旬に北海道に行って以来、食欲が高まっている。普段ならミックスナッツのボウル(デーツやオートミール、その日の気分で選んだフルーツを添える)と、サラダボウル(葉野菜、その日の気分で選んだ生野菜や温野菜など)で満足できるところ、さらに昨日の演奏会の前に気に入りのカフェで買ったサーモンときのこのキッシュやら、一昨日くらいに作った茄子の味噌汁の残りやら、あんぱんやら、北海道土産の菓子やらを食べた。人との約束や絶対にやらなければならないタスクがないと、食欲と怠惰が高まっていくような気がする。宿には今日もゲストさんが泊まっているけれど、とても静かに生活をする方のようで、気配がなく、まだ一度も姿を見ていない。だれとも肉声を交わさずに一日を終えると気分が調わないことが多いことが最近分かってきた。
 腹を満たして画像作成を再開すると、一時間ほどで眠くなってきたので気晴らしに散歩に出る。宿の近くのミーヤ館という建物に期間限定でグランドピアノが設置されていて、片道15分ほど歩いてそれを弾きに行くのがここ数日の日課になりつつあった。到着すると、いつもと様子が違う。ガラス窓から覗く館内は暗く、入口にはスクリーンがかかっている。ドアのそばまで近づくと、昨日の祝日に会館していたため、今日は振替休館日だという貼り紙があった。出鼻をくじかれて少々残念だったが、定休日や臨時休業と仲がいいのは今に始まったことではない。来た道とは別の道を選んで帰る。途中、外国人の方とすれ違い、もしかして滞在中のゲストさんだったかも、と思う。
 散歩からもどると、友人から手紙が届いていた。先月末にコーヒー染めの実験をしたとき、完成した葉書サイズの紙を何枚か送った友人だった。封を切って思わず声が洩れ出た。——ま、わあ! 罫線の入った2枚の便箋のほかに見慣れた色の紙が入っていて、どうやらわたしのプレゼントした紙にイラストを描いてくれたのだった。マグカップを両手に抱える女の子の絵で、寒さを楽しむ様子がとても好きだった。きっとそのマグにはコーヒーが入っているのだろうと思う。紙からまだほんの少しだけコーヒーの香りがした。
 16時ごろに早めの夕飯を済ませ、「哲学をする」について考える。昨日のstand.fmでの配信を通じて、コメントをくれたリスナーさんとコラボ配信をしてみる運びになった。いただいたレターに「ぼくは『哲学をする』のが相当好きみたいです」と書かれていて嬉しかった。どんなコラボにならんかと、30分ほどかけてレターに返信。

2月14日(水) 午前

 朝7時半、昨日Amazonから届いた本を読み始める。『ことばにならない宇宙のふしぎ(原題: Eating the Sun)』(Ella Frances Sanders著)。数年前に話題になった『翻訳できない世界のことば』の著者が2019年に出した本の存在をたまたま知り、『水中の哲学者たち』の後任にぴったりだったので迎え入れた。とてもよい読み心地。
 午前の分の仕事をこなしていると、宿のインターホンが鳴った。去年はこの音が鳴るたびに心臓を飛び上がらせていたのだが、音の種類と音量を調整してからは気にならなくなった。直接玄関に行き、ガラス扉を開ける。てっぺんに透明のフィルムがかかった腰ほどの高さのダンボールの横に、いつものヤマトのお兄さんが立っていた。サインをして受け取る。お兄さんを視線で見送り、ひと呼吸置いてフィルムを覗くと、花だった。
 差出人の欄にはスウェーデンに住む友人の名前がある。そういえば、先週その友人とやりとりをしているときに、何色が好きか、来週は家にいるか、と訊かれていた。なんの質問だろうなと思いながらも、小中学生のころに流行った心理テスト的な質問(なんの前触れもなくくる質問)が嫌ではないので、深く考えずに答えたところだった。がざがさ、べりべりと音が立つのをかまわず花を取り出す。立派なミモザの枝が2本、淡く花びらの翳る色違いのバラが1本ずつ、2色のスイートピーが2本ずつ、それからフリルのついたピンクや橙のチューリップが2本。もぅぁゎ〜と、ことばにならない声が出た。
 もの、とくに物理的な「物」を贈るのが得意ではなく、だから贈られるのも得意ではないのだが、花だけは手放しによろこんでしまう。お礼のメッセージを送ると、無事に届いてよかったと軽やかな返信がきた。ハッピーバレンタイン、と添えられている。

2月14日(水) 午後

 金継ぎの続きを進める。
 昨年末、宿で使っている益子焼のいくつかが欠けてきたのを直すべく、工房などに詳しそうな友人に訊ねてみると、なんと友人本人が金継ぎのセットを持っていた。始めはその友人に作業を任せていたが、やがてセットをまるごと借りて私のほうで作業もさせてもらえるようにした。
 ・・・という話を毎月宿に泊まりに来てくれる常連のゲストさんに話したところ、翌月いらしたときに「まだ漆、やってる?」「これ、飼ってる猫のフードボウルなんだけど、欠けちゃって、金継ぎしてもらえないかなって」と言いながら淡いピンクの、立派な陶器が目の前に差し出された。???。銅は丸くカーブして3センチメートルほどの高さがあり、淵には大きく欠けた部分からさらに5センチメートルほどひびも入っている。???。自分の顔が苦笑いしているのを感じていると、続けて「これ結構いいやつで、処分するには勿体ないけど、修理に出すことにも違和感があって、そしたら、あなたがやっていたことを思い出して」と言われて、おちた。
 「あの、上手くいくかとか、どんなふうになるかとか、全然予想もできないし、しかもいいやつとのことですし、あ、あと、期日とかも決められないですけど」——いいんですか、と言いかけて、「うん、うん。大丈夫。やってみてもらって、上手くいったら送ってください」と言われる。引き受ける。
 誰かの生活のなかに、わたしを容れてもらうということが、堪らない気持ちをもたらす。容れる。すると、溜まる。でも、堪らない。引き受ける。溜める。作用し合っている。
 金継ぎの前報酬は、茨城県の名産の干し芋だった。スーパーで手に入るような硬い噛み応えのものではなく、しっとりとやわらかくて甘味が口の中でずっと広がるタイプのもの。それをホテルの朝食ビュッフェを取りすぎてしまうかのごとく、ありったけいただいた。

2月14日 (水) 日没後

 近ごろの自分をひと言で言うなら、“覇気がない”。すべきこともしたいこともありながら、今日することだけが決まらない。することって、決めない限りないんだな、と思う。
 「〜べき」や「〜たい」で未来を待たずに、「〜する」で現在を過ごしたい。たとえば、書きたいと思うのではなく書いているそのときだけにやってくるものを手にする、ということ。作りたいとわくわくするのではなく、作りながらわくわくする、ということ。

2月15日(木)

 6時10分に起床。シャワーを浴びて、『あり方で生きる』を読む。7時半からミーティング。終わってから『ことばにならない宇宙のふしぎ』を読む。9時半に確定申告の準備。10時半ごろからそわそわし始めて、11時ちょうどに外の駐車場に車が到着する音を聞く。玄関の扉を開ける。
 先月知り合ったばかりのマリンバ奏者の方を迎える。彼女は「カナエさんの2月末にタイに行く投稿が気になって仕方がありません」と連絡をくださった。そういうことなら会いましょうと宿に招いた。お土産のシフォンケーキをいただく。代わりにコーヒーを淹れる。私のこころが中南米にあったためにホンジュラスの豆を選ぶと、「まあ。マリンバに使われるローズウッドはホンジュラスのものなんですよ」と言われる。心が浮く。同じ空気の中で息をしているように感じる。
 旅をしたいと漠然と思っている彼女はわたしがどうやって旅をするのか知りたいという。どうやって。理由ではなく方法を訊かれるのは初めてのような気がした。目的地が決まったきっかけなどの外側の話から、宿や交通手段といった具体的な話などもする。目的は紙漉きだが、目標はほかに「ロンガンをおなかいっぱい食べる」「スーパーで買いものをする」があることも話すと、笑いながら感心してくれた。
 彼女は旅に音を求めていた。ひとつは現地の音楽、たとえばケチャやガムランといった東南アジアの音楽に生で触れたいと言う。——できます、とわたしが答える。
 あるいは、マリンバと共に旅をしたいとも言った。トラベラー用のミニギターがあるように、世界にはミニマリンバも存在するらしい。へえ、と思う。製造はオランダの会社で、日本では流通していないため現地で買うのがよさそうとのこと。——できます、とわたしが答える。
 わたしの100%の肯定に彼女が身を乗り出している。とても不思議だったのだが、話を聞いている間なぜか旅をする彼女の隣に自分もいる様子が想像されていて、同じことが彼女の想像でも起きていたと分かった。わたしが彼女の旅をアコモデートし、あわよくば公園や森や水辺でのフィールドレコーディングにも同席することを想像したら、口角が緩むのを止められなかった。
 2025年の4月ごろに中南米か少なくともどこかの外国にいる可能性が高い、と伝えると、心に留めておかせてくださいね、と言って彼女は宿を出た。マリンバ運搬のためであろう大きなバンの運転席に乗り込んだ彼女に手を振り続ける。ADDressで移動生活を始めて以来、あるいは、清川村で家守を始めて以来、出会ったばかりの人とものすごい速度で接近することが増えている。彼らは衛星ではなく、彗星なのだろう。
 午後、ミーヤ館にて今度こそピアノを弾く。3度目になる。C#キーだと直感的に弾ける。次点にD。他は難しい。次回はC#にBキーの転調を組み合わせてみたい。
 夜、確定申告の進める。送信直前の書面を税理士に送りつけ、ギターを弾いたり、漫画を読んだりして、24時15分に就寝。

2月16日(金) 午前

 寝坊。7時すぎに起床。昨晩アラームの音を変えたら起きられなかった。寝坊したぶん急いだりタスクを減らしたりすることはなく、むしろどうせ間に合わないのならと諦めたように大らかな気持ちで読書と少しの作業を進める。
 10時過ぎ、車に乗って上野原へ向かう。三十日珈琲の看板と室内に飾る作品の制作のためだった。当初は完成したものを届けるつもりだったが、ある時から上野原邸で作業するのが良さそうだなと予感しはじめていた。この日は20℃を超える陽気で、縁側が気持ちいいだろうなと想像しながら運転した。
 11時過ぎ、到着。助手席の荷物を取り出す時に肘があたって車のクラクションが鳴ってしまう。三十日珈琲に入るとそのことを笑われつつ、店のふたりと友人ひとりが迎えてくれた。

2月16日(金) 午後

 簡単な昼食を終えて看板制作に取りかかる。試作用の紙でスプレーの色ノリを見た後、本番用の鉄板で準備する。その鉄板は上野原邸の物置から掘り出されたらしく、薄緑に黒いスプレー跡がまだらに残っていた。
 太陽の光が溜まる縁側に移動する。友人もいる。すぐに暑くなって上着とヒートテックを脱いだ。すこし喋る。事前に切っておいたステンシルの型を貼り付けるが、自分で作ったはずの型の地と図が分からなくなって二回、三回とやり直した。それすら友人と笑った。両面にロゴを配置し、表面にはOPEN、裏面にはCLOSEと併記してある。なんとか型の貼り付け仕上げて外に移動し、スプレーを吹きかける。「ツヤ消しコロラドグリーン」が鉄板の上でぬらぬらと艶めかしく光っている。作業をしていたアプローチのコンクリートに少しスプレーがかかってしまったのを気にしていると、「大丈夫っすよ」とやさしく声をかけてもらって安心した。
 看板のスプレーが乾くのを待ちながら、もうひとつの制作を進める。三十日珈琲が行なったクラファンのリターンのための作品を、この日、現地で描き、できたてをお渡しするというスリリングな計画をしていた。先週コーヒー染めをした、サイズの異なる木製パネル4枚を店内の壁に仮り置きし、当初予定していた正方形型ではなく縦長型のパネルを使うことに決めた。しっくりくる、と思った。描こうと想定してきたいくつかのパターンをふたりに相談すると、「カナエさん視点のストーリーを書いてほしいです」とすぐに方針を定めていただけたので、わたしの心も決まった。縁側に戻り、鉛筆で下書きをする。
 くるくる、くるくる、くるくる。鉛筆の軌道が紙からパネルに伝わって、木の音が縁側の中で共鳴する。鳥が鳴く。風に木枝が揺れる。光がわたしを照らしたり、翳らせたりする。遠くでだれかが話している。仕事に戻った友人か、三十日珈琲の客人か。縁側の外の洗濯物になれるとさえ思った。くるくる、くるくる、くるくる。線を引いては消し、引き足して、また消す。引くのか、足すのか。引いているのに、足されている。また〈ことば〉のことを好きになってしまう。そうやってぼうっと手を動かしている間に好みのかたちが生まれたので、見える限りの薄さになるように消しごむで整えていく。
 いよいよペン入れ。頭の中に文章を浮かべ、いちど反芻してから、くるくるの軌跡を文字で辿っていく。点描画の点が文字(文章)になったものだから、「pointillism (点描画)」に対して「writillism (文描画)」のように読んでいる。これ絵と呼ぶにはあやうい気持ちになるほど、「描く」よりも「書く」をしている。いろいろなことが思いよぎる。初めてふたりと話をした日。打ち合わせに行ってコーヒーを淹れてもらった日。ロゴについて話した日。コーヒーを淹れにきてもらった日。ロゴが完成した日。ショップカードが完成した日。良さんに淹れてもらったコーヒーを飲みながら運転した日。後藤さんにわたしの好みのコーヒーを訊かれて真剣に考えてみた日。
 書いている最中は、ペンが乗っても一文ごとに手を止めて顔を上げる。文を反芻してまた書き進める。こういう時、「誤字をしない」という自信がどこからくるのか分からないが、心配していないとき、大抵そのことは起こらない。途中、後藤さんがコーヒーを差し入れしてくれて、それがとても勇気になった。美味しかった。
 しだいに太陽が森の影に隠れて、縁側にも暗さが広がった。粘り続けたが、下書きした鉛筆の線が見えなくなってリビングに移動した。

2月16日(金) 日没後

 移動してからそう時間をかけずに文章を書き終えた。ひと通り読み返して、できた、と声に出す。できたてのそれを最初に見てくれたのは三十日のふたりではなく一緒に上野原邸に来ていた友人だった。ぱっと見せる感じかな、と思いきや、そのまま読み進めてくれ、時々ふふふと口元が動いたかと思えば、ところどころを音読してくれて恥ずかしくもうれしかった。作家として、鑑賞者のまなざしを追うのも好きだが、どの部分がその人の中に残ったのかを知るのは別のよろこびがある。
 日中に制作した看板もすっかり乾いた。友人と一緒にステンシルの型を剥がす。無意識に呼吸が止まる。ぺりぺり、とテープ糊が鉄板から剥がれる音がする。おおお、とか、わああ、とか、声が出る。スプレーの飛沫のおかげで、実際よりも輪郭がふんわりとしたロゴが鉄板上に描かれている。必要以上にゆっくりと、ときめきを一度で終わらせてしまわないようにていねいに、時間をかけて型を剥がす。想像よりもよいかたちで看板が仕上がった。
 打ち合わせを終えた後藤さんに見せ、さらにその後、外出先から戻った良さんにも見せる。ふたりのまなざしと、読後にいただいたことばを以て、今日この場で制作することにして本当に良かったと思った。
 部屋に戻る。エアコンを点けずに、ぼーっとしたり、借りた本の表紙だけさすったりして、24時過ぎに就寝。

2月17日(土)

 朝5時前に起床。子どものころから、誰も起き出していない時間に目を覚ませる朝がうれしかった。
 本を読み、手帖を書き、昨日の分の日記を書く。
 昼はみんなで上野原駅前のイベントを見に行く。出店の豚汁やたこ焼きを食べる。どさくさに紛れてハンドパンを叩き、ギターを弾く。イベントの主催が、昨年11月に宮ヶ瀬の音楽イベントで共演したアンナさんで驚いた。ハグ。イベントの締めはコントラバス奏者の方のソロ。バッハのチェロ曲を中心に演奏されていた。臓器に響くような深い低音と、弦を跨ぐ彼女の右手の運指に見惚れた。
 演奏を聴き終えてスーパーに寄る。今夜は鍋。まだ明るい帰り道、わざわざカーブと坂の多い山道を選んで清川村へ戻る。

2月18日(日)

 6時50分に目が覚める。もう少し寝ていようと思ったが、40分後にstand.fmで「哲学をする」をしてみる、のコラボ配信があるのを思い出して飛び上がるように起き出した。30分ほど後ろ倒しにすることも考えたが、決めたことをやろう、と思い直す。
 配信は無事に終わった。相手の問いかけの思慮深さに感謝を覚えたり、自分の無意識的なこだわりに気付いたり、予期せぬコロケーションを面白がったりする時間だった。ひと呼吸おいてアーカイブを聞き、詳細欄にタイムスタンプを残す。
 午後は友人ふたりとカフェひとあしへパフェを食べに行く。去年はじめて食べたホワイトチョコレートのパフェもたいへん魅力的だったが、ふたりは赤いちごのパフェにするという。普段は自分の食べるものを相手に合わせることは少ないが、このお店では同じパフェをつつきながら各々の感想をああだこうだと言い合う時間がとても好きなので、わたしも季節のいちごを堪能することにした。いちごのアイスと塩のクランブルで優勝。
 帰宅後、引き続き3人でコーヒーを飲んだり味噌チョコクッキーを食べたりしながらお喋り。高校の部室や、大学のラウンジが思い出されるような、「だべる」に近い感覚を覚えた。なんでもない話が誰かの経験を掘り起こし、そこから新たな話題に発展する。あるいは起こり得る未来の話に至る。それを繰り返す。たのしい。
 友人がひとり帰る。ふたりで見送る。膨れたおなかをさすりながら仕事の続き。最近は落ち着いている。
 夜、昨日の鍋に和風カレーだし(?)を投入する。締めはうどんと決めている。二日間の計画的鍋会終幕。食べる量や味の好みがぴたりと一致することを丁寧に喜び合う。
 21時に母と電話し、22時に不要になった生命保険の解約方法を確認して就寝。

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