ヨキ
それは、まるでわたしの身体を宙に浮かせて、わたしの体重をゼロにして、止まっているのに動いているような気分にさせた。
それは、湖の上をすべるように進んだ。湖面を見つめていたわたしたちは最初、空の色が反射しているのだと思った。けれども白い靄のようなものが水の表面ではなく空中に、立体的に発生している。湖から湯気が上がっているみたいだと感じ、しかし、すぐに鼻先を赤くしている空気の冷たさを思い出して雲と言い換え、しかし、それが上空にないことから霧と言い換えて落ち着いた。
それを、太陽を背にして見ていたときには気が付かなかった。太陽が視界の中心に回り込むと、その霧は湖のごく一部ではなく全体に渡っているように見えた。地層を見てくれと言わんばかりにえぐられた、複雑なかたちの湖縁には山の影が落ちて、その影の上にも見える。不規則な風によってまだらに揺れる深そうな水面の上にも見える。吊り橋を歩いているのに、飛行機の小窓から雲海を眺めている気分だった。
それは、ゆらめく気嵐にあった。
それは、芝草の上にもあった。首を後ろにたおして自分の頭の重さに驚きながら見上げるケヤキの木は、色づいた葉を順に枝から切り離していた。幹を囲むように落ちた葉々たちを見て「踏んだら耳に気持ちよさそう」と近づくと、思いがけずふにゃっとした感覚が足に伝わる。カシュ、クシェ、と想像したような枯れ葉の重なりがこわれる音はなかった。
それは、きらめく朝露にあった。
散歩から戻り、バスに乗ったその人を視線が合わなくなるまで見送って、居間に戻る。ものが多いが、散らかってはいない(と思う)。ものが多いままゲスト——友人とはいえど——を迎えてしまったことと、それでも、今の自分にできる最大限をしていることとを同時に認める。その人がいた部屋のリネンをおおげさに取りはずして洗濯機に入れる。その部屋に掃除機をかけながら、見覚えのない充電器がコンセントにささったままになっているのを見つける。次のときに渡そう、と心に唱えて丁寧に紙袋にしまう。紙袋が手の中でカシュ、と音を立てる。
掃除機をかけ終えてこたつに座りなおす。昨日に続き、『世界の適切な保存』(講談社、永井玲衣著)を読む。10題目、「枯れ葉」。
世界とわたしがつながっていること、世界がわたしに語りかけてくることを「枯れ葉」を通して感じようとする。昨日や一昨日やその前、少なくともこの一週間、わたしは枯れ葉について何も考えなかった。でも、久しぶりの散歩をしたその数分後、同じように枯れ葉について思い巡らせていたひとの言葉に交わる。
これを偶然のようによろこびたい自分を広場に放して遊ばせておきたいとも思う。しかし、「そのときどきで自分の一番近くにあることばや考えが目に留まるのは偶然というよりは当然(そう考えると筋が通る)であり、当然というよりは自然(解釈を交える必要さえなくただそうである)であり、自然というよりは必然(なるべくしてそうなっている)」という気がしてきて、そのようにことばが淀みみなく溢れ出てくるのに思考はそれに追いつかず、そのせいで見えていたものまで曇って見えなくなっていくような気がする。
「あなたがわたしに住んでいる」ということばを一年前くらいから使っている。一緒にいた時間の長さに関わらず、あなたの発したことばがわたしの左手の親指のはらや、右肩のかどや、まぶたのすぐ裏に刻み込まれている。何かの拍子にそのことばを思い出すことは、あなたを思い出すことに等しい。あなたが覚えていなくても。あなたがわたしに住んでいる。
「歌詞」と呼べるものをはじめてわたしの肌身から切り放してから3年ほど経った。以来、また「歌詞」が書けるような気がする感覚だけは育ち、けれど実際にそれとして放たれたことばはなかった。それでも、ことばになりたがっている感情や感覚はわたしの肌のすぐ内側にやはりあるような気がする。頭でも心でもなく、わたしと空中とを分かつ皮膚のすぐ内側に、ことばが張りめぐらされているような気がする。
そこにはどうしてそんなことばになったのか、分からないような単語が並んでいる。つなぎ合わせてテーブルを飾るレースにしたいと願いながら、実際には網目の不揃いなセーターになってしまっても構わないとも思っている。どこに辿り着くかよりも、そのとき何を考えているかに自覚的でいたい。残されたものから自分のできることを分かればいい。できるようになるのを待っていると、何も出来上がらない。どこか焦っているように聞こえなくもない。
「やったことはできたことになる」
落ち着きを取り戻すために今年の手帖を見返していたら、1月17日のページにそのように書いてあった。「それによって、行動のまえにできるかどうかを気にする心配や時間やためらいを全部なくせるって気づいた。やればいいんだと思えたのがうれしかった」と続いている。これを読んでうれしくなった。「やればいい」という気づきで終わらずに「うれしかった」という感情で終わっているのがよかった。よかったね。わたし。
分からないことを、何が分からないのか、どう分からないのか、どう分かりたいのか、何さえ分かれば分かるのかと、思う。しかし、それらを正確に問うことができない。できない自分がいることだけはわかっている。それを嘆きではなく、「どうして問えないんだろうね」という問いにして呼びかけたら、踝のほうに隠れているわたしの一部が反応してくれるだろうか。
何か分からないことがある状態は不安をもたらすけれど、それを問いに変えられると、そのぬかるみから足を抜けるかもしれない、と思う。
けあらし 揺れる
ちぎれ雲 ゆく
鳥の 声だか
虫の 羽音だか
知らないね 世界を
知りたいね あなたを
枯れ葉 集まる
もみじは 未だ
朝露 きらめく
足音 もぐる
水鳥 つーと
鴨たち そっと
みえてるね 世界が
きこえるね あなたが