見出し画像

三十歳、月読み(一)

2月5日(月)

 朝、起きる直前まで見ていた夢にザ・ルーズドックスのメンバー4人が出てきた。吹奏楽のコンサート会場になりそうなホールで、ケンジさんが私を認識してこちらに近づいてくる。宏樹さんは私の隣のシートにかけていて、右斜め後ろを振り返ると一平さんもいる。ふわりと時間が経過して彼らはステージに。いつもの上手(かみて)にリーダーの姿もみつけた。夢なので都合がいい、と夢のなかで思った。演奏中に一平さんと目があって微笑まれ、手で合図をされる。キネマ倶楽部でのそのときのように。あ、と思ったときに、目が開いてしまって、穏やかに体を起こした。
 寝巻きのまま部屋を出る。居間の障子を開け、玄関の方へ向かう。昨日水張りをしたパネルが4枚、寒そうに並んでいた(宿のゲストが友人だけなのをいいことに広げたままにしていた)。まだ乾いていないのか、それともただ冷たいだけなのか、ひと触れしただけではよくわからなかった。今日は雪が降るらしい。端のほうを指の腹で撫でるとわずかに音がして、乾いた、と思った。しかし、よく見ると4枚とも四隅のいずれかが突っ張ったりヨレたりしている。これは使えないかもしれない。それでもよかった。昨日友人が来てくれたことでようやく制作のスイッチが入り、大判紙のコーヒー染めと水張りの感覚を掴めたところだった。この調子なら、今日友人が帰ってしまってもなんとか一人でやれそうだ、と思った。
 朝10時ごろに雪が降ってきて、10時45分には積もり始めていたが、11時のバスに乗るには準備ができていないということで、12時のバスまで友人とふたりで過ごすことにした。わたしは隅がヨレた紙をパネルから切り取って外し、そこに貼り直すための紙を友人が適切なサイズに切ってくれた(わたしはこの作業が苦手だったのでとても助かった)。大学を卒業した今でもこうして彼女と手を動かしていることに、あたたかな喜びがあった。余裕を持って作業を終え、外に出る。宿の前で手を挙げるとバスが停まる。私が手を振る。彼女も応える。バスがカーブに沿って行くのを見届けた。
 14時過ぎ、予定よりも40分ほど遅れて今日のゲストがいらした。掘りごたつの中で次の旅の話をしながら過ごした。暖房が息継ぎをするたびに冷気を吐き出して、それが部屋を寒くした。障子戸は開けたまま、粒の大きい雪が重そうに落ちるのを見ていた。

2月6日(火)

 月末に行くバンコクとチェンマイの宿探しに3時間半を溶かしていた。210分。100より大きい数字は、それがどのくらい多い量なのか分からなくなって、こういう時に落ち込みすぎなくなるからいい。

2月7日(水) 午前

 先月から仕事の一部でアメリカのカスタマーサポートに問い合わせを続けている。メールのたびに違う担当者から返事があり、それぞれタイプの異なるメール本文を読むのは楽しかったが、数週間も続ければその目新しさは薄まる。そろそろカスタマーサポートのスタッフ全員とやりとりしたんじゃないかという気もしてくる。一方で、自分の不明瞭な表現によって期待した回答が得られないことに若干の疲れを感じそうな予感もあった。
 今日はサポートからの返信にうれしいメッセージが書かれている。昨日、注意深く確認してから送った質問群への返信だった。
 「とてもエクセレントな質問をありがとう」「できるかぎり一生懸命答えます」「加えて、あなたの質問がとてもいいので、私たちのマネージャーにも共有します」とあった。署名にはドーナよりとある。この人、ドーナを、つかまえよう、と無意識に思い、次も彼女からの回答をもらえるようにとその場で返信を書いて送信ボタンを押した。考えることが多いメールの返信を数時間放置してしまいがちだけれど、質問を褒められたことによって明るくなっていた私の脳が冴えていた。
 外には雪が積もっていたものの、太陽の光が気持ちよかったので、外に出て水張りの続きをやる。
 数日前に作ったコーヒー豆の抽出液を再度加熱し、外でバットや木製パネルを広げて準備。熱い液を流し入れたバットに紙を浸けて15分ほど置いたのち、専用のテープで木製パネルに固定する。この工程が水張りである。水張りをしたのは、大学二年の実技の課題以来のことだった。結構な工程があったが、4枚のパネルを張り終えてもなお午前中で、これからまるまる午後が使えることにわくわくした。

2月7日(水) 午後

 水張りをした日の午後、中国のビザが取れた。タイ行きにつなげて杭州を訪れてみたかったのだが、パンデミック以降日本からの中国入国にはビザ発給が必須となっているらしかった。2月1日に初めてビザセンターを訪れ、書類不備で翌日にもう一度行ったのでこの日は三度目の訪問。もしビザが降りなかったら、飛行機代は返ってこないよなぁ、という如何にもしようのない思考が毎日よぎった。「もしも何かあれば電話がある」ことになっていて気が気でなかったが、その電話を受けることはなかったので恐るおそるセンターへ向かった。申請のときに数時間を過ごした部屋とは別の小部屋に通される。ものの数分で自分の番が来て、窓口のお姉さんに7千7百5十円を請求された。6日ぶりに自分のパスポートを持った。心なしか重くなったような気がする。特殊紙にすかしの入った〈査証〉が輝いている。
 浮かれているその足で新宿へ向かう。去年まで一緒に仕事をしていた後輩と夕飯の約束があった。約束より40分ほど早く喫茶店らんぶるに入ると、階段の中腹まで列ができていた。早く来てちょうどよかった、と思っているとさほど待たされることなく階段下の、「そこに座れたら良いな」と思っていた席に案内される。席の場所を後輩にメッセージで送っておく。コンビニで買ったメモパッドを開き、頭の中に浮かんだり消えたりした言葉たちを書き留める。今度は手帖を開き、その日のハイライトを書き残す。すでに長い日であったが、一年以上一緒に働いた後輩とは画面や電話越しのやりとりだけで、この日初めて会うのだと思うと自然と顔が弛んだ。それを店員に見られたような気がして、不自然でないように顔の向きを変える。
 私の苗字を呼ぶ声にはっとして顔を上げると、後輩がいた。ふわふわのピンクのコートとぴたっとしたブーツに身を包んだいかにも女子大生のいでたちに、今日の自分はどんな格好をしていたっけと思いつつもにこにこの笑顔でこちらに近づいてくる彼女から目をそらせない。彼女がアイスコーヒーを頼みかけたのをメロンソーダフロートに変更したのがかわいくて、ほかのことは気にならなくなった。外国や異国の食べ物の話で盛り上がった。
 らんぶるを出てcurry草枕に向かう。以前友人に連れて行ってもらったとき、ひよこ豆と大豆のカレーが絶品だった。硬めの豆たちとミニトマトとスパイスがそれぞれ独立して主張してくるのに、なぜだか調和もある不思議な食べものだった。もう一度あのひよこ豆の硬さを味わいたいと思っていた。
 前回の来店時にクーポンをもらっていたことを思い出して見せると、二人分のラッシーがサービスされてこの上なく幸運な気持ちになった。後輩も表情いっぱいにうれしさを示してくれていて、それがなんだかとても自分を喜ばせた。
 今回はナスとトマトのカレーにひよこ豆と大豆を追加する形にしてみた。優勝。

2月7日(水) 夜

 後輩と19時には分かれて小田急線に乗る。改札の手前で、この後も何かあるんですか、と訊かれて、終バスが早いのよ、と答えたが、今日わたしは車で来たんだった、と電車に乗ってから思った。しかし、この後はスーパーに行きたかったのだった、だから早く帰る理由はあったのだ、と自分に言い聞かせるようにして目的の駅につく。
 スーパーでは目当てのバナナが品切れだった代わりに、視界いっぱいのメロゴールドとゼネラルレクラークが私を待ち構えていた。前者は柑橘系の仲間で、のちに秤で重さを測ろうとするとエラーが出てしまった。ひと玉で1キロ以上あるということだった。後者は洋梨の仲間で、皮がうすく繊細だった。ガシッと握るとその部分だけがみゅっと凹んでしまうので、丁寧に持ち上げる必要があった。去年から「知らない食材を食べてみる」のを毎週実践してみているが、ここ数か月は特に大きな食材に惹かれるような気がする。
 何度もあくびをしながら家に着いた。

2月8日(木)

 宿で管理人をしながらでも自分の生活を守るための項目をふたつ言語化してみた。1、やりたいこととやらなければならないことはGoogleカレンダーで予定として時間をブロックし、やる。その時間を誰にも(自分自身にも)侵させないぞと思う。2、食べないものや食べたくないものはたとえ勧められても食べない/食べたいものがあればそれを優先して食べる。
 『あり方で生きる』(大久保寛司著)を読んでいる。「ジャッジしない」という表題に目がいく。いいとか悪いとか、すきとか嫌いとかじゃなくて、あなたはそうなんですね、とただ聞き入れることのむずかしさを振り返る。
 ぽっかりと時間が空いた午後、急に思い立ってセクシュアリティ診断なるものをしてみると、自分のことを表しているはずなのに知らない単語がたくさん出てきてとても勉強になった——ジェンダーフルイド、ノンバイナリー、リスセクシュアル、パンロマンティック、サピオロマンティック、リスロマンティック。「ア-(自分がそれを望まない)」のほうかと思っていたら、「リス-(相手からそれを望まれたくない)」のほうだとわかり、確かにそうかもしれないと腹落ち。

2月9日(金)

 昨日炊いた玄米で朝、おむすびをつくった。ひとつは柚子山椒、ひとつは作り置きの切干大根、それから、友人手作りの黒豆味噌でかつお節と砕いたナッツを和えたもの。幸だった。それを自分のためではなくひとのために作ったというのも含めて。
 午後、アメリカのカスタマーサポートから集めた情報を一枚のチャートにまとめる。図にすることで見つかった不明点をさらにドーナに質問する。彼女はわたしの質問をまるごと引用してインタビュー形式の返信をくれるので、漏れがない。しっくりくる、という気持ちでやりとりができた。

2月10日(土)

 朝からジグソーパズルがぽすぽすと気持ちよくはまるような時間を過ごしていた。本を読み、デザインラフをクライアントに送り、昼ごはんをゆっくりと食べたのち、ココアパウダーとオートミールでホットチョコレート風の飲みものを作ってみたら想像よりも美味しい。次はココアのプロテインでやってみよう、と思う。
 午後、チャート作成のつづき。ほぼ完成。別の仕事をしたり、アニメーションを作ったりして、夕飯は茄子の煮浸しに挑戦した。過去のものと比べて一番の出来だった。

2月11日(日)

 朝、目が覚めてから2時間ほど布団のなかでうにうに過ごしたのち、8時ごろに起床。起きる理由がないと起きられないという確認ができた。ならば起きる目的を作ろうと、明日stand.fmで収録をすることにした。決めただけではやらない可能性があったので、今日のライブ配信のときに宣言しておいた。——以前は思考や行動の過程を人に知られるのが苦手で、それは「有言実行が苦手」というよりも「不言実行を推奨したい」という気持ちから来ていた。けれど最近は、「『できるかどうか』については心配する必要がなくて、『やったところまではできたことになる』」という感覚を通して、過程も含めて「そこまではできたんだね」と自分を見守るような気持ちでいることに成功している(ことが多い)。

年齢の十の位の数が変わるまで秒読み、ならぬ、月読み。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?