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自分史note(生誕~2022年3月)

こんにちは!

明治大学四年の狩野太志です!

あと、2ヶ月で学生生活が終わるということもあり、学生生活を自身で懐古する目的もあって、価値観形成から起こった出来事までめっちゃ細かく攫っていきたいなと思っています!

自己紹介

名前:狩野太志(かりの だいし)
誕生:1998年4月4日
出身:神奈川県
大学:明治大学商学部商学科卒業(副総代)
趣味:ラーメン、筋トレ、野球、パワプロくん、最近は進撃の巨人
性格:負けず嫌い、優しいとはよく言われる
強み(SF):個別化・最上志向・成長促進・自我・親密性
16personalities:主人公




これまでの人生

幼少期

神奈川県横浜市の金沢文庫という駅の近くで長男として誕生。初めての子供だったこともあって、結構大事に育てられていたようだ。

聞いた話だと、体操を習っていたが順番を抜かされることに関しては特に文句も言わず、たまに回ってきた順番では、普通ではありえないようなところで顔面を打ち、よく鼻血を流していたようだ。

自分では全く覚えていないが、そんな「控えめで鈍臭い」人間だったみたい!

小学校

低学年の記憶はあんまりないが、中学年になったくらいから野球を始めた。他にもそろばんや公文、水泳、サッカーなど、すぐ辞めちゃったものから長く続いたものまで、いろんなことをやっていた。

特に、記憶の大部分を占めるのが野球の思い出。中学年の時はかなり楽しく野球してた。意図せず地元の強いチームに入ってしまったようで、練習時間などは長かったが、とにかくがむしゃらにやっていた毎日だったし、平日も暇さえあれば学校のみんなと野球をしていた。

成績としては、あらゆる大会ほとんどで優勝し、ある県大会に優勝した際には優勝スピーチもやらせてもらった。その時は、控えめな性格とは裏腹に「来年も優勝するんでよろしく!」のようなことを言っていたらしい。今の自分から考えると鳥肌もの。

そんな楽しかった野球生活も長くは続かず、高学年に一度転機が訪れた。少年野球は4年までの下級、5年以上の上級チームに分かれていて、5年になって上級チームに入ったことが大きなポイントだった。それまでは、「楽しい!」野球をしていたが、上級になると、「勝つために厳しく」の野球を強いられた。監督やコーチはすっごく怖いし、というか、人生において、怖い人によく巡り会う。詳しくは後述。練習は長いしきついしで、だんだんと野球がつまらなくなっていった。小学生の自分には、朝5時から日が昇る前に自転車を漕いでグランドに向かい、日が沈むまでグランドで駆け回ることがあまりにも辛かった。

6年生になる直前、自分たちの一個下の代が上がってきたタイミングで退部を決意した。嫌だと思いながらやっていた練習は何にも身になっておらず、後輩にレギュラーを取られてしまうような状態だった。

退部した後は、小学校での野球活動に勤しんだ。家が近所だった男の子と親友となり、毎日のように2人で野球をして遊んでいた。明くる日も明くる日も、どうしたらボールを公園の外に出せるか(ホームランを打てるか)ばかりを考えていた。

3年間くらい2人で活動をしていると、たくさんの人たちが仲間に加わろうとしてきた。気づけば野球チームの「創始者」(カッコよく言うと)のような状態になり、約10人程度のメンバーを率いて活動をしていた。授業中に自分が考えた打順を元に5vs5の紅白戦とかをよくやっていた。よくこんなえっらそうなやつとみんな遊んでくれたと思う。今思うと感謝でしかない。そんな1小学校内のチームではあったが、一度だけ対外試合ができた。その時は「純粋に野球を楽しむ」ことができて、最高の思い出だった。

小学校はなんだかんだ学校では、友達や環境に恵まれほんとに楽しい時間を過ごせた。


中学校

中学は、何も考えず小学校の右上に位置していた公立中学に進学。この3年間はかなり楽しいものとなった。

軸で言うと三つ。野球、人間関係、勉学だ。

まず一つ目の野球

小学校で外部の組織は退部したものの学校で活動を続けていた自分にとって、野球部入部は当然の選択だった。小学生の時にレベルの高い野球に触れていた分、早いうちから活躍することができたのは、楽しいと思えた理由だったかも。2年生のうちから、クリーンアップを打たせてもらって、3年生になってからは副キャプテンをやらせてもらった。雰囲気も割と自由だったから、控え選手が応援歌を歌う制度を導入するなど、ここでも好き勝手にやらせてもらったことは記憶に鮮明に残ってる。

また、最後の大会ではいまだにそのネタで酒が飲めるなってくらい活躍した。

タッチという漫画の中のセリフで、「わしが心底打ってほしいと願う場面での新田は10割なんだ。」というセリフがあることを後に知るが、このセリフはこの時の自分のためにあったのでは?と思うくらいに。最後の大会では、シード校を撃破し(その試合でも決勝タイムリー)ちなみにこの試合後「次の試合打ったら、このガッツポーズするわ」とガッツポーズの型を宣言し、見事タイムリーを放ち、実現する。競った試合を勝ち上がる毎日が本当に楽しくて楽しくてたまらなかった。負けるタイミングはやってきたけど、「勝てるなら死んでもいい」と思ったのはこの時くらい。最高のピッチャーがずっとマウンドにいたから、守っていてもすっごく楽しかった。本当に最高の仲間と巡り会えたことに感謝してる。そんな最高の野球生活を送らせてもらった。

二つ目は、人間関係

これは、クラスでの話になるが一年生の時に文化祭でドラえもんの主役をやらせてもらった。それ自体が楽しかったのはもちろん、「ドラえもんの人だ」って感じで学年中に友達ができた。どうやらこの頃は対人コミュニケーションも上手くいっていたらしく、数多い友達と良好な関係を気づいていた。

その後、3年間劇で主要な役をやらせてもらったことはすごく嬉しかった。

三つ目は、勉学だ。

中一の夏くらいから、ずっと塾には通っていた。塾の構成は同中6割:その他4割くらいで同じ中学の友達と楽しく勉強しつつ、他中学の友達もできるいい機会だった。単純に友達といるのが好きだったから、2年までは塾の位置付けが「友達といるための口実」って感じだった。

そんなスタンスで通っていても意外と継続は実るもので3年の時には、割と頭良くなっていた。志望校を決め始めてからというもの志望校模試では、500人中の大体1番か2番になっていた。

(ここで初めて継続って言葉を使ったから触れておくと、体力テストの長座体前屈が4点だったところから、1年後には10点まで上がったのは結構大きな成功体験!)

だから、順位表を見るのが楽しくて、食堂に貼ってある順位表を見ながら夜ご飯を食べるのが受験期は日課になってた。

実際の試験では公立合格・一応受けた私学も奨学生になって成功して受験は終えれた。

こんな感じで、「学校って楽しいなぁ」という気持ちだけ持って、市立金沢高校へ進学した。

高校生

高校生は自分にとって大きな学び=挫折の時期だったなと思っていて、それまでうまくいっていた、野球、(人間関係)、勉学全てで挫折を経験した。

まずは、野球

というよりかは、野球でコケたことが多分全挫折の要因。

ここでは、本当にいろんな挫折をした。さらに細分化すると、物理的挫折と精神的挫折の二つ。それぞれ書いていこうと思う!

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約7冊分くらいの野球ノート。これが、いろんな記憶を思い出させてくれた。

物理的ダメージ

・入部3日目でピッチャーライナーが首に直撃。三途の川を見る。

入部直後はピッチャーをやることが多かった。理由はただただ左利きだったということだけ。三年生と一緒の練習に混じってから3日目くらいの出来事で、当時4番を打っていた上級生の放った打球が首の左側に直撃した。その場で倒れて気付いた頃にはグラウンドの外まで運ばれていて、首は赤く腫れ上がっていた。

→当たった事自体ももちろん痛かったけど、親も「明日から練習するしょ?」的なノリで顧問も「休みとかいらないよね?」的なノリだったことには驚いた。

人生で付き合った3大怖い人。1人目は小学校の時の野球の顧問で、2人目3人目はこの2人。親もまぁ常人の50倍くらいはえぐい。

・「骨折は怪我じゃねぇ」と言われる

一年の秋頃。この頃は高校3年間の野球人生で1番輝きを放っていた。打撃の調子がすごく良く4番を打つようになっていた。しかし、夏場から1日2試合出て、なおかつ練習も休みなくやり続けた結果、足の骨が折れてしまっていた。ロキソニンを飲んでも中々に痛かったので、練習を別メニューにして欲しい旨を監督に伝えた。そうすると「骨折は怪我じゃねぇ」と一蹴され、むしろ怒られた。この出来事では、骨が折れたことはもちろん痛かったが、それ以上に、「骨折は怪我じゃない」ことが異常だと思った中学からの親友が部活を辞めてしまったことのダメージが大きかった。そして、このダメージは後述する受験期にもう一度ぶり返すこととなる。

・インフルでも練習出続ける

冬場になると、監督は「インフルになるやつは雑魚」という風潮を蔓延させていた。秋に骨折で怒られた記憶が新しい中、絶対にインフルにはならまいと手洗いうがいをことあるごとにしていたが、こういうものは意識すると逆になってしまうもので、12月末ほどに無事インフルに感染した。休む選択肢ももちろんあったが、復帰した後の処遇を考えると居た堪れなかったので、休まず部活に出続ける選択肢を選んだ。健常時にやっても、酒以上の嘔吐を催すような冬トレを、インフル下でこなすのは想像を絶するほど苦痛だった。でも、1番すごいのは、このインフルが誰にも移らなかったことだと今では思う。

・遠征先で、1000回ヘッドスライディングさせられる。

これは、明確に覚えていて、千葉の市民球場に遠征した時の出来事だ。今、インターン先で千葉の立ち上げをしているが、正直千葉の思い出はこれしかない。当時、二年生は自分を含めて三人試合に出場していて、ポジションは二、遊、左(←自分)だった。この日は、怒られる標的が2年に絞られていて、まずは、二、遊で出ていた2人が標的となった。二遊間に打球がとんでダブルプレイをミスした時、ついに監督の堪忍袋の尾が切れて、2人は即交代→説教→それぞれ、グランドのファールゾーンでヘッドスライディング500回という流れになった。レフトを守っていた自分の隣で2人の同期が延々とヘッドスライディングを繰り返す姿を見て、「今日はミスなく頑張らないとやばいぞ」ということは直感的に察した。なんとか、うまく試合中盤まで大きなミスなくすごすが、終盤自分にチャンスで打席が回ってきた。「ここさえ乗り切れば、今日は安全に帰れるぞ」と意気込んだが結果は凡退。どうやら、凡退の仕方がよくなかったらしく、ヘッドスライディング1000回を言い渡された。照り返しが熱かったのと、人間は砂と接しすぎると本気で干からびると知れたことが印象的だった。ダブルプレイを取れないのは確かにミスだけど、チャンスで凡退はよくあることだから仕方ないよなぁと今でも思う。

・膝に水が溜まって曲がらない時に22回飛び込みさせられる

野球では、試合の前に10-20分間くらいで行われるシートノックってのがあるんでだけど、これはその時の出来事。こちらも千葉遠征の時で、どうやら千葉とは相性が悪かったみたい。当時、シートノックを内野で受けていたが、エラーをした時に罰?としてノックが厳しくなる選択肢が二つあった。一つは、「グローブを外してノックを受ける」こと、硬式球はとても硬いから当然痛いのだけど、当時の自分は、とにかく膝が痛かったからこちらの選択肢なら受け入れられた。が、この日、自分に降りかかったのは「飛び込んでも届かないところに打球を打たれ、ひたすら飛び込む」の選択肢だった。この時は、計22回飛び込むという3年間で1番飛び込んだ記念日になった。ただでさえ飛び込んだ回数が多かったのに、加えて膝が痛かった。先に、「内野でノックを受けた」と書いたが、この前の日までは外野で受けていたからこの飛び込みの展開になることはノックの直前になるまで予測できなかった。そんな自分は、膝の痛さのあまりユニフォームの中に、バレーボール用の膝サポーターを着用し、その中に氷嚢を忍ばせてプレーをしていた。氷嚢とロキソニンの掛け合わせで痛みの軽減を期待していたが、飛び込みさせられるとなると話は全く変わってくる。痛み軽減の役割を果たすはずの氷嚢が飛び込んだ膝に突き刺さるのだ。これほどまでに自分の悪運を恨んだことはない。

p.sこの日、結局「5番レフト」で試合に出場し、外野の間を抜くツーベースを2本放った。この日に限ったことではないが、ツーベースを打つたび、「なんで三塁に行かなかったんだ〜〜」と怒られる。その位足は遅かった。この日は足が痛かった。

・3日間(24時間)開脚前転をし続ける。
ある日の練習メニューからアップの練習項目の一つで倒立前転・側転・開脚前転が追加された。倒立前転と側転は数日でなんとか形にはしたものの、股関節がとてつもなく固く、開脚前転だけはどうもうまくできなかった。
その数日後、監督から呼び出され「お前は開脚前転ができるまでグランドの端っこでずっとやってろ」と激怒された。
その翌日から土日月の三連休、8:30-19:00まで毎日開脚前転だけに取り組む日々が続いた。
まだ冬の気候が残るグラウンドで、寒さに凍えながら、そして、そこら中に埋まった石に背中を刺されながら(グラウンド整備でちょうど石を投げ集めていたところでの開脚前転だった)、一回一回謎に大きな声を出しながらひたすらに転がり続けた。
「開脚前転を1日でした回数で言うと確実に世界で1番になった」この時は確実にそう思った。

その他、蹴る・殴る、は日常茶飯事だったので割愛。

精神的ダメージ

・キャプテン2日でクビになる

これに関しては、そんなに大したことではないので、あっさり触れていくと見出しの通り、キャプテンを2日だけやってクビになってしまったと言う話だ。今思うと、この時には、「怒られないためにどうしたらいいか」に労力割きまくっていたし、そういったスタンスが見抜かれてしまっていたのだと思う。

・めっちゃ大事な試合でA級戦犯になる。

「怒られないためにやっていた」集大成がここに現れてしまったのだと思う。これは、3年の春の大会のお話。私学撃破・接戦を制したりなど順調に5連勝して迎えたシード校決定戦の出来事だった。正直対戦相手は、今までの相手より強いとは言えないところで、全員が創部初めてのシード獲得に現実味を感じていた。そんな試合で初回から人生最大のやらかしを犯した。「7番レフト」で出場していた自分は、1点先制した後の1回の裏の守りについていた。ツーアウト満塁で6番バッターが放った打球は目の前に転がってきた、自分のグローブがちょうどグローブ一個分くらい地面から浮いていて、その下を無常にもボールは転がっていった。その時の情景は今でもはっきり思い浮かぶ。夢にも出てくるほど。後ろを転がるボールを必死に追いかけるが一向に追いつかない。スコアボードに灯る相手の点数を見る恐怖。現実を受け入れるまで試合中ながら相当に時間がかかった。自分のせいで生まれた3失点を皮切りに終わってみれば、2-9の大敗を喫していた。(ちなみにもう1エラーしてさらに2点献上している。)それまでも、色々なダメージを背負いながら、なんとか乗り越えてきたけど、最悪な結果が自分を崖っぷちまで追い込んだ。

試合後、球場を後にするときも、翌朝部活に行くときも誰と話すこともなく、日々を過ごした。

翌日、練習試合が予定通り行われていたが、特に声をかけられるでもなくAチームからは外れていた。今までは、怒鳴られる中でなんとかやってきた自分にとっては初めての感覚だった。これが自分にとって最大の挫折。

この辺りから、投げる際にボールが手につかないイップスというやつになっていた。野球をすることも部活に行くことも学校に行くことも(家にいることも)全部が怖かった。

p.s

この挫折を引き立てる要素が二つある。

1つ目は、この試合が自分の誕生日の約10日後だったこと。誕生日の日には、部員から、サプライズで祝ってもらい「春の大会」に向けての結束感を高めたばかりだった。

2つ目は、自身が結構注目を受けたがりだったこともあり。「神奈川高校野球bot」のようなアカウントを運営していた。神奈川の野球好きに対して、母校の知名度を高めることを目的としてチームメイト何人かで運用していたが、そのアカウントを通して、自分のミスを文面上で再度突きつけられることになる。以降、このアカウントは運用されなくなった。

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敗戦時の野球ノート、字が汚いのは結構元から。

・最後の試合で悔しさを感じられなかった

高校野球は全国一位にならない限り、必ずどこかで負ける。だから、負け方が3年間の満足度・充実度を決めると考えるべきなのかもしれない。そう考えると、自分にとっていい負け方とは到底いえなかった。

「野球を楽しむ」とか「勝ちたい」といった欲求に基づいてプレーができていなかったから、試合が終わった瞬間「ホッとしている」自分もいたのは間違いなかった。

「終わりよければすべてよし」という言葉があるように、この終わり方が悪かったことこそが自分が経験した高校野球のネガティブを強めているのかなぁなんて考えたりもする。


上に述べた通り色々あった。勉学人間関係について
勉学は朝7-22時まで練習してたから、夜の睡眠も満足にとれず、その分の睡眠を授業で補填することで勉強は最下位近辺になり、また、塾に通うことも部の暗黙知のようなルールで禁じられていた。(塾に通った先輩は事実干されていた。)
また、人間関係は、練習・大会などで行事も3年間ろくに参加せず、準備せずだったのでクラス内人間関係もそんな上手くいかずって感じで3年間低空飛行、本当に信頼できる友達とかいなかったような気がする。

人間関係と野球で苦労に見合った結果が得られなかったことが本当に悔しかった。だから、夏休みに塾に通い始めてからは、「学年1位に返り咲く」を目標にして、野球にあてていた時間を全て勉強に充てるようになった。

時間にすると1日13時間程度、風呂に入っている時も寝る3秒前までも勉強していた。

自分の頑張りに自分自身が報いたかった思いが強かったし、部活動をやっていた時は自分のアンチ的存在だった(野球部は校則を守らないため、先生たちからは嫌われている)先生からも勉強を応援してもらえるようになった経緯から、なんとか「第一志望」合格を目指したが結局ここでも挫折をしてしまった。

それまで、自分を追い込みに追い込んだ3年間のツケが1番大切な受験日にぶつかってしまった。試験中に、「なぜ自分は貴重な高校3年間両手の数ほども遊ばずに過ごしてしまったんだろう」などと、一つを考えだすととまらくて気づいたら試験中に涙をボロボロ流して泣いていた。止めよう止めようと思っても、むしろ涙は流れる一方で、1科目目の英語は全て鉛筆を振ったような回答になっていた。

結局、勉強を始めてからの半年間で言うと、「やり切った感」はあるけど、最後の最後に大きな「後悔」は置いてきた。

結果は補欠合格落ちで、自分の大学受験の戦いが終わった。いくらスタートは遅かったといえ、半年間一切妥協せずにやってきた自負はあったために0.5点差で自分の目標に届かなかった悔しさはとても大きなものだった。

そしてここでは、すごーく前に出てきた、部活を一年やめた親友が早稲田大学に合格した。3年間の野球でとてつもない充実感を得ていたのならいいが、そうではなかった自分にとって「辞める」選択肢をとり、必死に努力した友の姿はとても立派に写った。し、すごく悔しく感じた。

ここまで書いてきたように、totalでみてあまりうまくはいっていない高校生活だった。そんな中でも、いくつか成功体験もあったから自分への慰めのために3つくらいは書いておきたい。

成功体験①高2の春~夏。初ホームラン。

対平塚湘風。雨が降るなかの試合で内角高めの球を体の反応で打った。右中間スタンドをゆうに超えていって結局これが人生で1番いい打球だったかも!背はチームで1番小さかった(168cm)けど、ホームランは2番目のスピードで打つことができた。トレーニングとか食事とか素振りとか頑張っていてよかった!

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ホームランボール

成功体験②高3の夏、驚異的な追い上げ。

上で書いたように「戦犯」になった後は、自分に出場機会はなかった。

夏前になっても、試合出場の機会はほぼなく「代打を目指して打撃練習に専念すれば」と関係者に声をかけられるほどだ。

だが、そんな自分に約夏の大会3週間前、一度だけチャンスが訪れた。なぜか試合直前5分前くらいに急遽メンバー変更があって、「3番ライト」で出場することになった。(急に最後のチャンスでも与えたくなったのか...?)全く準備していなかったわけではないが、正直予想外だった。いざ試合に入ってみると、この日はすごい集中力が働いていた。来た球、全部ヒットにできた。4打数4安打くらい。この一度のチャンスで首の皮一枚繋がり、その次の試合もスタメンで出ることに。イップスの症状は残りながらも、フェンスにぶつかりながら大飛球を取ったり懸命にプレーをした。この日に3ヶ月ぶりに技術指導を受けたのを覚えている。極め付けには、大会前の最後の練習GAMEでホームランを打ってしまった。こうして一度のチャンスから少しずつ突破口を開いていった。

そして、野球部は夏の大会1週間前に壮行会を行う。保護者や応援に来る生徒を前に最後気合いを入れる場だ。そこでは、選手一人一人に言葉がかけられた。自分は確かに直前で結果こそ残したとはいえ、「この場でも罵倒されるのではないか」と終始冷や汗だった。そんな中、自分の順番が回ってきて、監督はこう言ってくれた。「こいつは、一度与えたチャンスでしっかりと結果を残した。あの局面で結果を出すために裏でとてつもない努力をしてきたんだなと伝わってきました。こいつは努力家です。だから、夏はこいつを使います。」と。野球のメンバー発表は大抵当日行う。つまり、1番大会に出るはずのなかった自分が1番最初に試合に出ることを確約されたのだ。ましてや褒められた経験なんてめっぽうなく、初めてホームランを打った時も「やっと1本かよ、おせんだよばか」と言われていたから、この言葉、特に「努力家」というワードはすごく嬉しかった。ここから後の人生で長所を聞かれると、自分は「努力家」と答えるようにしている。

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↑夏の大会の試合画像。動画①・動画②

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↑3年間の通算成績。ギリッギリ3割。「いい時は5割うつ、悪い時は1割しか打たないタイプだった」。ありがたいことに、500回近くも打席に立たせてもらえて、色んなピッチャーと対峙できたのはいい思い出。

成功体験③受験勉強絶好調期。

部活を引退し、一位を目指した自分はどこかの何かの模試で学年一位をとりたかった。本番の入試では順位が出ないから、必ずその前に!

こんな思いを持って勉強していた矢先、11月くらいに早慶大オープンを受ける機会があった。ここで、すごくいい成績を残せて、学年一位をこの時は無事取れた。ましてや、全国の早稲田教育・人間科学第一志望者の中で、top10に入る好成績を取れた。この時から、周りの目がガラッと変わってみんなが自分のある種「挑戦」を応援してくれるようになったのは嬉しかった。

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この3年間で良くも悪くも「人の顔色を気にする性格」は身に付いてしまった。それまではどっかで怖い人にあっても、かたやどこかに安息の地を見出してたけど、この時はどこにもなかった。学校に行けば、常に顧問の機嫌を伺い、行事も出れないわけだから申し訳なさそうに振る舞い、たまに行事に参加できる機会があっても、A級戦犯の十字架を(勝手に)背負い、家に帰れば親の顔色を伺い、そんな毎日だった。人に顔を伺って怒らせなかったことに毎日満足感を見出していた。

「勝手に恐れていただけ」と言われれば確かにそうなんだけど、この時の自分はそんなことを考える余裕もなかった。

こんな想いが錯綜して、「大学では一切頑張らない」ことを信条に明治大学へ進学を決める。

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↑野球ノートの最後のページには志望校が!最初は明治を全学部で受かろうとしていて、途中から早稲田にいきたくなったようだ。

大学生

大学生になってから、2年間半は自分で立てた目標をかなり高い精度で完成できたていた。本当に何も頑張ろうとはしなかった。学校に行き、バイトに行き、とりあえず会話には困らない程度には遊び、特に活力はない「消化してた」毎日だったと振り返れる。

当時は、誰からも攻撃されないこの安心安全の毎日がそれだけで幸せを感じていた。

ところが、就職を意識し出したり焦りを感じたり、「大学生にやっておくべきこと〇〇」のようなyoutubeを見て、どうせだったら、後ちょっとだけ頑張ってみようかなって気持ちも芽生え出していた。

だから、自分の中でもっとも幸せを感じていた「中学時代の自分」から仮説を立て、自分の中で消化していくことにした。

つまり、野球・勉強・人間関係の三つでそれぞれ頑張ってみた。大学時代の出来事はのちに思い出すのも容易と思うため、簡潔にまとめておく。

まずは、野球について、

・野球サークル・ソフトボールの部活に所属

・高校野球は毎年始発で観戦に

・横浜スタジアムでアルバイト

・高校野球ドットコムで長期インターン.  ...etc

勉強について

・とりあえず、学部で1番倍率の高いゼミに入ってみる

・2週間留学をしてみる、そこでできたアメリカ人の友達とマカオに行ってみる。

・必要そうと思い、TOEICを勉強してみる。

・「電車移動は読書」をルール化し、年に50冊くらい本を読む。   ...etc

人間関係

・サークルにいっぱい所属。

・大学生の仲が良いアルバイトに所属。

色々やってみた系

・バイトは単発のものも含めると、数十~百は経験。いろんな働き方を目の当たりに。

・わんこそばで友達と勝負。(確か結果は118杯、勝利。)

・ラーメン二郎いっぱい食べてみる。(全国では、21/41店舗訪問。神奈川は全制覇。すするTVにも会いにいき、サインをもらった。)

・成人式の日に読ランでバンジー。

・三年時、皇居10kmマラソンに出場、3位。

・筋トレを始める一年でMax105kg挙上達成。←この過程を記したnote

・1人暮らししてみた。

・2週間フィジー留学してみた。

・CWで1万字の本執筆してみた

・英会話カフェに行き、格安で英会話講師を捕まえた。

・教育✖️自己分析的なコンテンツでボランティアをしてみた。

・GeekSalonでプログラミングやってみた。(二郎まとめ

・UI/UXデザインでポートフォリオ作ってみた

Qiita記事書いてみた

・元野球部だけでサッカーの大会に出場してみた。

・サバゲーやってみた(楽しい!!)

・旅行代わりにカプセルホテルに友人と8泊してみた!

こんな形で、GeekSalonと出会った。だからきっかけとしては新たな挑戦の一つって程度で特に大きな理由はなかった。強いていうなら、既にエンジニア就職が決まっていたというくらい。

そんなGeekSalonが今では自分の生活の主軸となっているのだが、なぜそうなって今自分がGeekSalonで何をしているか、最後に述べていきたい。

(ちなみにここから先の文面は、いわゆるGeekの専門用語というものが多く出てくる。Geek関係者外でこのnoteを見てくれた人にはそれぞれの見出しの、「Geek外向け」の部分を読んでもらいたい!)

GeekSalon受講生時代

Geek外向け
GeekSalonは「アプリのリリース」をゴールにしたプログラミングスクールで、
自分は、SE企業への内定をきっかけにGeekSalonへの入会を決めた。10月末日くらいから3ヶ月のカリキュラムを受講したが、2ヶ月目あたりからこのコミュニティの良さにのめり込んでいた。「プログラミングを学びたい!」と自ら行動を起こした大学生だけが存在するコミュニティで、みんながいろんな挑戦をしていた。その話を聞いているのがすごく楽しかった。休学した半年を何に使うべきか、決めかねていたが、「GeekSalon」で働きたいと思うようになった。

自分は受講する2ヶ月前に即入会をしていた。今思うと、あの1on1の説明会ってめっちゃ強力だなって思う。

実際受講がスタートしてから、最初の1ヶ月は勉強会のzoomを中々押す気になれず、1人で黙々と勉強をしていた。

Geekの楽しさを知ったのは、2ヶ月目からだった。この時に勉強会の楽しさを知った。最初の勉強会では、草場れお君とめっちゃ話す時間があってこの時にバックパッカーの話とかブログの話とか色々聞いて楽しかったし、自分のroom以外にもいっぱい受講生がいることを初めて知る。これをきっかけに勉強会には積極的に顔を出すようになり、たくさんのメンターとお話をした。現役メンターだとかなこと話したのがすごい印象的!質問を1問くらい答えてもらい、そこからはブレイクアウトで話す時間を取れることがすごく楽しかった。「オンラインでこんなに楽しく話せたのは初めて!」と思えたことがメンターを志したきっかけだった。

メンターを志してからというもの、休学期間のコミット標的をGeekSalonに定め、とにかく毎日「面接受かりたいなー」と思いながら勉強をしていた。何を血迷ったか、採用面接でガクチカを聞かれ「筋トレ頑張りました!」と筋トレについて長々と語っていたことに関しては正直自分に焦った。だけど、面接官がゆーやラグビーだったから、たまたま合格することができてよかった。こうして、GSDCの後1週間以内には、採用が決まり2月からメンターになることが決まった。

ちなみに、GSDCでは特に目立った結果は残しておらず、高校の同級生だった角井が全ての賞を総なめしていた。すごく嬉しかったけど、ちょっと悔しい。角井とは高校の時、スタディプラスのアプリを入れ一緒に勉強時間を競い合った仲だった。

GeekSalonメンター時代

Geek外向け
実際にインターンとして採用してもらい、働くことができるようになった。
その時に掲げた目標は、「自分で立てた目標は必ず達成する」ことだった。
そして、具体的な目標は「営業成績で1番を取ること」を掲げた。
新人時代の3ヶ月では、3つのことに取り組んだ。ここではそのうち二つを記入。
①受講生対応
これはプログラミングスクールに入会してくれた大学生にプログラミングを教えていく仕事だ。
プログラミング歴は浅かったものの、日々の自己学習を積み上げたり、何より、仲間の助けがあってメンターとしての成功体験を得ることができた。
成功体験としては以下
・担当した生徒が全員最高ランクの満足度を感じてくれて、社内表彰を受けた。
・担当した生徒が、GSDCと言われる成果物発表会で優勝・入賞をすることができた。
・担当生徒たちが皆「GeekSalonで一緒に働く」選択肢を選んでくれた。

②営業活動
これは、プログラミングスクールの認知を高め、多くの大学生にGeekSalonで頑張ることを決意してもらう活動。
この営業活動の中でも、多くの成功体験を得た。
↑この部分については、下の文章を読んでもらうとわかりやすいかもしれない!
目標に掲げていた「狙った場所で1番になる」を体現した。

結果MVRに選んでもらうなど、大学生活の中でも大きな成功体験を得た充実の3ヶ月だった。

「オンラインでこんなに楽しく話せたのは初めて!」と直感的にメンターを志したが、自分の中ではもう一つ理由があってメンターを志望した。

大学生活ずっと、上述のように「野球」・「勉強」・「人間関係」のどこかにhappyの答えはあるとなんとなくは感じていたが、なんとなく核心はつけてない気がしていた時に、Geekの「仲間と目標を持って頑張れる」この環境こそがhappyのキーポイントのような気がしたからだ。

メンターになった時の目標として「自分で立てた目標は必ず達成する。」を立てていた。新メンター時代はどんな業務・指標があるかも不透明であったから、ざっくり「とにかく何かで1番になる。」を目標にした。

実際に働き始めたのが2月で、2月・3月は仕事を理解・覚えることに注力した日々だった。自分よりも年下なのに、何倍も意識高く、そして何倍も実力を引っ提げて働いているみんなが本当に憧れだった。

そして、4月から1Qが始まるのだがこの3ヶ月は非常に思い出深いものとなった。特に思い出深いpointを3点あげていこうと思う。

1つ目は、受講生対応。

正直、自分の対人力・技術力全てに不安はあった。中でも、自分の担当した期の担当メンターは本当に人間的にも技術的にも優れている人ばかりで、まあ何一つ勝てていた部分はなかったかなと思う。でも、一つ一つ思い出に残っていることは多くて、深夜に一緒にエラー解決した思い出・企画面談の後にだべだべお話ししてた思い出、あげると枚挙に遑がない。実は自分の中では、担当性が就活を成功させてきたり、受講中に休学を決めたりしたこともかなり嬉しかった。

そんなこんなで楽しいことや大変なことももちろんありつつ、気づいたらあっという間に3ヶ月が経過してGSDCの日を迎えていた。緊急事態宣言下(確か)でオンライン開催ではあったけど、お世話になったまんどさんのroomの子と自分のroomの子で集まってカラオケでGSDCをしたのは本当にいい思い出。あの時カラオケいた子、今もほぼみんなGeekいるなぁ(笑)。

単純に楽しかったのはもちろんだし、担当受講生から、優勝者を含め入賞者を輩出できたことも嬉しかった。優勝する気概と実力があった子がroomに居ただけだけど、愛想をつかされなかったことも一つ頑張れたポイントではあるのかなと。

この瞬間に得られるもののために受講生対応って頑張れるんだなぁと、そう感じたGSDCだった。

2つ目は、Tech活動。

何か仕組みに残る仕事とかしたいなぁ、そう思って志望したのがTechの役職だった。ここでもとても学びが多かったし、とても楽しかった。これは楽しかった兼やってしまった談でもあるんだけど、Techになった後の初めての土曜mtg前夜の飲み会。これはとっても楽しかった。ちなみにこの日初めてオフィスで朝を迎えることになるが、意外と悪くなかった。

Techの1番いいところは、拓馬さんから毎週FBをもらえるところ。拓馬さんには、Techの部分とは全く関係ないところでも、GSDCの勝ち方の話から、考え方の話まで本当に色々なことを教わった。優しいながらも的確なFBをしてくれて本当に神のような存在だった。

最後の飲みでは、全員集まれなかったのは残念だったけど今振り返ると「ゆるい幸せがだらっと続いた(ソラニン)3ヶ月」だった。

3つ目は、マーケティング活動。

上で、「何かで1位を取る」の目標を立てたが、働いている中で「説明会で1位をとる」が1番の狙い所だと思っていた。選んだ理由は、Q末発表時に表彰されているのをみて承認欲求の満たされやすさを感じたのと、数字で見やすいもので序列がはっきりと可視化できるから。

自分は普通の大学生より可処分時間が多い分、さらに上を目指そうと思い、当時の入会数TOP(と聞いていた)29入会も上回ることを目標とした。

これを合宿の決意表明にて宣言し、1Qが始まった。最初は架電の人が入らなくて、入会率50%前後を彷徨っていたけど、最終的には目標の30入会を達成できた。

高校の時に部活・受験で1番目指したものには後一歩届かず、辛酸を舐めていた自分にとって「宣言して1位を目指す」ことはすごくの勇気のいる行動だった。でも、今ではあの時宣言をしてから本気で取り組み、1位と5入会差ついても食らいつき、バイトの時間も説明会に合わせて融通をきかせ、時にはダッシュで帰宅して本当によかったと今では思う。

今思えば、これは自分にとって「説明会入会数1位」のような規模ではなくて、負け癖がつきかけていた自分の「人生の尊厳をかけた戦い」だったのかもしれない。だからこそ、必死になれた。

またチームとしてもまりか、それとゆーやサッカーが率いてくれたチームは本当に楽しくて、軽井沢旅行も含めて最高の思い出になった。みんなにはありがとうとこの場を借りて言いたい。

そして、1Qの終わりにはMVRにもさせてもらって、老害かつ新メンター(?笑)みたいな感じだったけど、そんなことは気にせず素直に喜ばせてもらっている。

1Qはこんな感じ。

最後に2Qはというと、今度は主に拠点立ち上げに挑戦することにした。

せりなの立ち上げの話を聞いて、Geek入った時から立ち上げには携わってみたいと思っていて、ちょうど就職前の(結局被ってしまったが,,笑)絶妙なタイミングで、しかも生まれ育った神奈川や千葉に校舎ができるということもあって手を上げないはずがなかった。

すごく大きな業務に携われていることを嬉しく感じるし、神奈川や千葉のメンターがいいサービスを作りあげるための手助けを精一杯できたらと思う。

ここから、後の部分はまた拠点が立ち上げった頃に加筆しようと思う。きっとその頃にはもう社会人になっているのかな。

大学の最後にあてもなく休学したけど、あの選択は紛れもなく正解だった。今では胸を張ってそう言える。環境に出会えたこと本当に幸せだった。

千葉神奈川拠点立ち上げ

千葉研修

↑千葉・神奈川合同研修の写真!

Geek外向け
インターンをしていたGeekSalonが新たに千葉神奈川に拠点を創業することになった。
自分はその立ち上げに従事することを立候補した。
理由は「自分が生まれ育った神奈川(千葉も今では地元くらい愛してる!)に自分が大好きな組織を作れることにワクワクした」から。
ここでは、主に「営業統括」「組織管理」として携わり、他にも「採用」「育成」…etc全ての領域で働くという経験をできた。
社会人になったら、専門性をより高めてバリューを発揮していく必要がある。その前段階として、色々な職種のやりがいを知れたことは自分の人生の今後の糧に絶対になる。色々やらせてくれた皆様には本当に本当に、感謝。
下にもまとめてあるが、一緒に立ち上げに従事した仲間たちは本当に最高だった。
立ち上げを通じた学びについては以下note記事を見てほしい!

2021年10/16(土)、千葉神奈川同時キックオフを迎えた。

受講生は目標としていた、両拠点で84人になんとか到達することができた。(gameとwebで少し人数偏りは出てしまったけど!)

この3ヶ月は本当に素敵な思い出がたくさんできて、毎日毎日「青春」を感じてた!

社員だけど実はめっちゃ優しくて、研修の前日一緒に4時まで作業して、一緒に研修遅れたとみさん(笑)

「ろ」と「ん」と「り」だけで形成された、慶応ハイスペイケメンター、でも庶民的なところがたまに垣間見えてめっちゃ可愛いりつや

ちょっと怖い人かなと思ってたんだけど、実はめっちゃ擁護者でSタイプで関われば関わるほどその一面が垣間見えたゆーや

会話スピードyoutube0.75倍なのに伝えたいことは絶対伝えてくるスプシ界に現れた10年に1度の逸材うっちー

候補生対応めっちゃあったかいんだけど、深夜に対応するから、候補生を全員夜型に変えてしまったかず

いつも研修の時、「おにぎり奢って!」というとなんの躊躇もなく奢ってくれようとしてくれる(ごめんw) たにー

そして、色んなところからGeekを見つけて応募してくれて、結構大変なアイディアソンや唐突の説明会テストを乗り越えて、「GeekSalonで頑張る」と決意してくれた千葉神奈川メンターのみんな

このみんなと働けたからこそ味わえた青春だったなと。心から、みんなありがとう!!大好きすぎる!!

立ち上げの経験を経て「自分のありたい姿」について

これから、細かい思い出どんどん書き足していきたいと思うけど、立ち上げをやる中で「今後の大事にしたい!」そんな感覚を覚えたことが一個あったから、それだけ、忘れないように加筆!

この立ち上げを経験するにあたって、何人かが「だいしさんのようになりたい!」「だいしさんの〇〇なところ、引き継ぎたい!」と言ってくれた。

これがもう、本当に本当に嬉しかった。

これが嬉しかった理由を考えると二つの理由が見つかった。一つは自分がこれまでとってきた行動とか言動が少しでもみんなのプラスになっていたんだなって実感できたから。正解がわからない中でも、自分で接し方の正解例を立てたり、「嫌われる勇気」と10回書いてからmtgに臨んでいたりしたこと(笑)が少しでも誰かの心に響いていたのだとしたらすごく嬉しい感動的なことだった。

二つ目は、これが自分のやりたいこと・在りたい姿だって思えたから!

今まではやりたいことって言えば、「起業」うーん確かにかっこいいなぁ、「フリーランス」おお、いい響きだなぁ、「アドレスホッパー」いいねぇ特別感あるねぇと言ったようなコトベースで自分のやりたいことを判別していた。

でも今は違う。千葉神奈川のメンターたちが自分の姿に少しでも、いいところを見出してくれて、それを自分に取り入れたいと思ってくれる。そして、千葉神奈川のメンターたちの働き方とかに変化が生まれ、そして、文化になる。そして、それぞれが担当する4.5人の受講生にまたこの文化を継承し、自分が直接関わっていない人のところまで、「自分が大事にしたいこと」はどんどん伝播していき、共感を起こして組織が大きくなっていく!(わかりづらいから図を掲載!)

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その結果が、ビジネスフィールドであれば「会社」になり、大学生の友人関係だったら「サークル」・「学生団体」になり、他にも「家族」になったり、「野球チーム」になったりしてるだけなんだって思った!

だから、「自分がどういう人間で在りたいのか」をしっかり持つこと。そして、その信念は決して曲げないほんの少しの「勇気」を持つこと。(もちろん素直さは携えて)

この核だけ見失わなかったら人生絶対楽しくて、感動的な毎日や人付き合いが待っていると感じることができた!


「休学期間の最後に頑張りたいこと」で千葉神奈川の立ち上げを選択して本当によかった。

一年前は、休学に対して猛反対していた父とも、ついこの前和解?をした。

この1年間取り組んできたことについて褒めて貰えたし、「休学した判断は正解だったな」と言って貰えた。これは他者評価でしかないけど、今まで他人に合わせた選択をしてきた自分にとって初めて、「自分の選択を正解にする」を体現できた瞬間だった。

これから自分が何に最も力を入れていくのかなんてわからないし、力を抜いて生きていくのかもしれないし何にもわからない真っ白な状態だけど、

「自分という人間はこう在りたい!」

この理想像だけは忘れずに生きていきたい!

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Geek神奈川のインターン生たちがサプライズでくれたシャツ着てる!

Geek神奈川のinstagram

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↑Geek千葉のインターン生たちが開いてくれた卒業パーティ!(2021/11/13)

Geek千葉のinstagram

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↑初めての成功体験をくれた39期の受講生&メンターたち!
1QマーケAチーム⚔️





終わりに

自分の経験を赤裸々に書いてみました。結構ネガティブ多めにはなったけど、こうして1万9000字も自分について語れる経験ができたことが素晴らしいことなのかなって思ったりもしたかな。書いていてすごく楽しかった!これからも、振り返ると時間を忘れてしまうような人生経験をたくさん積んでいきたいと思う。






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