オンラインヘイトに性加害… 憎悪溢れる社会の「処方箋」

ジャニー喜多川氏による性加害に、止まらないオンラインヘイト…。このところ立て続けにそうした関連の原稿を執筆した。正直、他者の心身を平然と傷つける行為の数々について資料を読み漁るうちに、書いているそばから心底うんざりした。かくも世の中は、言葉の刃や弱者への攻撃を簡単に行う魑魅魍魎で満ち溢れているのだ、という地獄のような錯覚に陥りそうにもなる。


しかし先日、オンラインヘイトについて書いた記事を読んでくれたある友人からの感想に、最近滅多なことでは驚かない筆者がとてつもない衝撃を受けた。この友人にも小さい子供たちがおり、今の世の中ネットリテラシーを高める教育が必要ではないか、という感想に続いた一文に言葉を失った。立て続けに原稿を書く中で、筆者は完全にこの視点を見落としていた。


以下、本人の承諾を受けてここにその一文を記す。


「個人的には個々が思いやりを持てればリテラシーなんて難しい言葉を並べなくても良いんじゃないかな…なんて思ったりしますが…。」


その通りだ。


ヘイトや性加害、もう少し広げるとジェンダー、LGBTQ平等など…。コンプライアンスだリテラシーだなどと西洋的価値観をカタカナで埋め尽くさなくとも、問題の根源は日本人が古来から大切にしてきた他者への「思いやり」が欠如しているからに他ならない。


このことを思い出させてくれた友人は、大分県に暮らしている。筆者は東京出身で2000年代の後半からほぼロンドン在住だが、コロナ禍に縁あってJリーグ・大分トリニータのサポーターになった。


長年イングランドに暮らしながら、プレミアリーグはおろかサッカーさえよくわからない筆者が「トリサポ」を続けている理由の一つには、リーグ内でも定評のあるサポーターの類まれな温かさがある。数年前、未だコロナ禍で海外在住者が日本に帰国することが一部で激しく嫌悪されていた頃のことだ。当初はあからさまに「海外在住者は帰ってくるな」とSNSで無数の怒りが露わにされていた。


2021年6月、筆者は東京五輪業務に関わるため帰国することが決まっていた。SNS上で繋がり、そのほとんどが会ったことのないトリサポ仲間に恐る恐る帰国したことを告げると即座に「お帰りなさい!」「気をつけて!大分で待ってます!」「一緒に(トリニータのために)戦いましょう!」などのリプライがいくつも返ってきた。


コロナ禍の当初は、ロンドンでもアジア人へのヘイトが一部で苛烈だった。一時はマスクと共に、アジア人であることを隠すための大きなサングラスもしなくては、恐ろしくて外出もできなかった。欧州で育ち何かと海外に縁のある人生できた筆者でさえ、コロナ禍の英国で暮らすことに疲れ果てていた。


未だコロナが蔓延していた英国からの帰国を告げたSNSの投稿には、当日トリサポから温かい言葉の数々と共に100件以上のいいね!が付いた。誰一人として「帰ってくるな」と発言した人はいなかった。涙が止まらなかった。


先の友人も、まだ20代と若いが古参のサポーターで、コロナ禍からのトリサポ仲間だ。他にも10年以上に渡りトリサポである年上の大先輩から、選手の名前やサッカーのルールもまだおぼつかない新参者の上、海外在住で試合観戦もろくに行けない筆者に「サポに古いも新しいもありません」と言い切り、仲間として迎えてくれた人もいた。


大分も、そして筆者が訪れたことのある九州各地でも、概ね人々は温かい。福岡では駅への道を尋ねた時、明らかに逆の方向へ行こうとしていた人が180度向き直って、わかりづらいだろうから「一緒に行きましょう」と普通にスタスタと駅へ向かって歩き始めた。仰天して腰が抜けそうになった。


自身の性的欲求を満たすために、自分に絶対逆らえない弱い立場の子供達を傷つける行為。それを見て見ないふりをする行為。日頃の鬱憤を鋭い言葉に変えて、技能を磨き実名で日々鍛錬するタレントやアスリートを匿名で誹謗する行為。そこには共通して、決定的に欠けているものがある。


先ほどある週刊誌報道で、ジャニーズ事務所で被害に遭った男性が少年だった頃、何も知らずに喜多川氏の元へ赴こうとする彼を止めなかった当時の先輩タレントについて告白した記事を読んだ。「止めて欲しかった」という旨の悲痛な思いが綴られていた。


江戸時代の遊郭斡旋でもあるまいし(少なくともジャニーズ事務所はそこが元締めへの性的サービスを行う場だとの看板を掲げておらず、ビジネスとして公然と性を売っていた遊郭より酷いかもしれない)その先輩タレントがもし喜多川氏の所業を知っていたのなら、たった一言今風に言えば「行かなくていんじゃね?」と言うことだったかもしれない。


このタレントにほんの少しでも思いやりがあれば、平然と少年が傷つくだろうことを見ぬふりなどできなかったのではないだろうか。本来、他者への思いやりを持ち、それを小さくとも行動に移すことはそんなに難しいことではないはずだ。この先輩タレントもまた、若い頃からこの事務所にいたおかげで、社会の基本である思いやりを学ぶ機会を逸していたとも考えられる。


ジャニー喜多川氏の性加害自体については外部再発防止チームによる調査報告書に記されている通り、同氏の「性嗜好異常」が指摘されており、単純な思いやりの有無で片付けられないことは百も承知だ。


それでも、このことを知りながら見て見ぬふりをしてきた事務所の関係者はもちろん、薄々そのことを知っていただろう放送関係者や広告大手で当時少しでも「思いやりが勝ったなら」と感じる。後に記すが、思いやりこそが利益に通ずることもあるかもしれないからだ。


ジャニーズは主に若者層に、夢を売ることを生業としてきた。彼らが晴れやかなステージで歌ってきた夢や希望、特別な存在、一生懸命、などという趣旨の歌詞の数々がもたらしてきた商業的な利益は、こうした被害者の犠牲の上に成り立ってきた。


その言葉の数々がいかに表面的だったのかに気付かされた時、傷ついたのはジャニーズのビジネスを支えてきたファンでもあるのではないか。終身雇用などもはや存在せず、不正規就労などが問題視される中でもわずかな賃金の中から、彼らの売る夢に長年希望を見出してきた人たちに、性加害を見て見ぬふりをしてきた関係者はどう顔向けできるのだろうか。


先週、在任中一度もジャニーズを自社のCMなどに起用しなかったと公言した元ネスレ社長・高岡浩三氏の発言が大きく注目された。


https://dot.asahi.com/articles/-/201952?page=1


記事の中で筆者が最も注目したのはこの部分だ:


「私の場合、芸能事務所の人と直接話をして、食事もして、個人的な友人になるところまでいって、この人は大丈夫だと信頼できた事務所や、タレントさんとだけ仕事をしてきました。」(AERAdot.9/21より高岡浩三氏インタビュー抜粋)


企業のビジネス上の戦略としては、当然まず利益が最優先だ。商品は企業にとって、利益をもたらす大事なモノで、その商品イメージを託せる相手かどうか、「人として信頼できるかどうか」を正しく見極めるには、一定以上の洞察力が必要だ。それに相応しい相手かどうかの見極めには、少なくとも弱者を食い物にするような思いやりの欠落した企業か否かを見抜く眼力が必要だろう。


ジャニーズ問題で露呈した、子供が傷つくことをみすみす見過ごしてきた芸能界や企業、メディアの大人の情けなさに比べ「ジャニーズは売れる」という短絡的な儲け話に浮かされることのなかった同氏のインタビューには、企業トップとしてあるべき心構えを垣間見た思いで、舌を巻いた。


高岡氏の退任後には、ネスレにおいてジャニーズの起用もあったというが(インタビュー中、今回の自身による発信により「今の社長にはかわいそうなことをした」との発言も、筆者には思いやりの現れに感じられる。)ネスレの「社会的な株」は、むしろ上がったのではないだろうか。


世界中を巨大なヘイトの渦に巻き込んだトランプ前米大統領が2020年の大統領選で敗北した直後、CNNの政治記者が放送中にも関わらず、たまらず涙を流したことがある。


「(トランプ氏の敗北で)父親でいることが本当に楽になった。子供に『人格は大切なことだよ。大切なんだ。真実を語ることは大切なことなんだ。良い人でいることは、大切なことなんだよ』と伝えることが楽に(=やっとできるように)なった」と話しながら嗚咽を漏らしていた。その記者は、トランプ氏が在任中公然とヘイトのターゲットにしてきた、マイノリティの黒人でもあった。


より早く、より短く、より効果的にコミュニケーションを行うSNSが主流の昨今、注目を集めるためにより過激に、より奇抜に行動・発言し、それを記録して発信することが普通の世の中だ。トランプ大統領が障害のある人を真似て嘲笑った衝撃的な弱者攻撃や、その映像を垂れ流し続けた大手放送各局やSNS、また、飲食店などで繰り返される迷惑動画の投稿(そして、そうした行為から利益を得るプラットフォーム)なども、この時代背景があってこそ成り立っている。


何世代にも渡り日本の社会で大切に育まれてきた「思いやり」がメインストリームから軽視され、隅に追いやられてきたことにはこうした背景もある。若者の迷惑動画行為を糾弾するだけではなく、社会を形成する特に影響力の大きい大人やSNSの運営者には、自身の振る舞いをも見直すべき節目ではないだろうか。若者はいつの時代も、大人の背中を見て育つ。


エンターテイメント業界でいえば、いつの頃からか芸人同士が相手を「おとす」「いじる」といった芸風が主流になっていった。いじめを助長すると一時期問題視されたが、その風潮が大きく変わったようには思えない。これについてはお笑いタレントの青木さやかさんが今年の初め、ある紙面で語ったことがあった。


https://www.tokyo-np.co.jp/article/222598


筆者はこうした「いじり」の芸風が「愛情」などとは思えない。画面を通して見ても、思いやりの有無はすぐに伝わってしまう。作り手が思っているほど、視聴者は物知らずではない。それが欠如した傾向のあるタレントは筆者は一切見ないし、その人物にまつわる「ニュース(多くがPR記事に等しい)」さえ読まない。テレビなどで重用されているこうした一部タレントは「勝ち組」なのかもしれないが、そのメッセージの数々は大人として無責任だとも感じる。


思いやりの欠如したものには不快感しか残らないし、またそうやって他者を傷つけても良いのだ、という若者への誤ったメッセージの発信に他ならない。「視聴率」を理由に世間がそれを求めているという理屈も、作り手としての怠慢だとも感じる。放送は、トレンドを牽引する力を有するからだ。


思いやりとは単に優しいだけで、間違いを正さないことではない。時には批判や叱ることも思いやりだろう。筆者が報道に携わった駆け出しの時代には、News23を率いていた故筑紫哲也キャスターが全盛の頃だった。オウムの坂本弁護士殺害事件に絡み、放送前の同弁護士のインタビューをTBSの制作スタッフがオウムに見せたことが大問題となった際、自身が出演するTBSを「死んだに等しい」と批判した姿を生放送で見た。


殺害当時1歳だった同弁護士の幼い息子までもが犠牲になった、こんな事件を2度と起こしてはならないという思いが筑紫氏の発言の根底にあっただろうことは、説明するまでもない。


筆者が育った70年代のドラマには、仕事場のデスクでタバコを吸ったり刑事が犯人をボコボコに殴る場面など、現代では「あり得ない」描写が多数あった。社会背景の違いは考慮に入れるべきだがこうした番組の多くの根底には、泥臭くても揺るぎない社会正義や他者への思いやりなどがテーマとして描き続けられていた。それが根強く支持された社会であったようにも思うし、制作陣のメッセージも強かった。


ストレートな思いやりの表現は、放送から半世紀が経った今でも変わらず光を放つ。1972年に放送開始し最高視聴率42.5%を記録、その後14年以上も放送の続いた「太陽にほえろ!」は、いまだに筆者のバイブルである。同番組を収録したコンテンツがいまだに高価で販売され続けていることが、番組への大きな支持を証明している。


筆者が「大人」から託されたバトンは受け継がなければならないと思うし、それは社会を形成する一個人としての責務でもあるように思う。そして、それはメディアの人間でなくともできることだ。


とても当たり前だが見過ごされがちな「大切なこと」を思い起こさせてくれた年若い友人には感謝しかない。「思いやりは大事だよ」と至極当たり前のことを、大人として発信し続けていく姿勢をもう一度、思い出させてもらえた。


「社会正義とか思いやりとかイマドキ流行んないよ(笑)」と冷笑やツッコミが入りそうだが、全くその通りかもしれない。筆者は英国などで最近放送されたドラマ「ザ・クラウン」よりも昭和の時代劇「影の軍団」や、「必殺シリーズ」で藤田まことさんの演じた「中村(主水)さん」一家で繰り広げられる「婿殿いびり」の方が気に掛かる。流行り物が得意ではないので、これからも泥臭く大人の誤りを指摘していこうと思う。

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