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BFFの定義(1)

BFF-Best Friend Foreverの略語。トモダチについての話。ヘッダーに挙げたのはかの熊のプーさんの言葉。プーさんにしても、スヌーピーにしても名言が多いので侮れない。

If you live to be a hundred, I hope I live to be a hundred minus one day, so I never have to live without you.

もし君が100歳まで生きるなら、ボクは100歳マイナス1日まで生きたい。そしたら、ボク、君なしで生きなくていいでしょ。

すごいな、クマプー。深すぎる。トモダチの定義とは?と考える時って色んな考え方があると思う。私にとってもトモダチの定義は「私が死んだ時に泣く人」である。これは、実は亡父が教えてくれた考え方というか、生き方である。

私が大学生の頃。東京で一人暮らしをしていた時に一度だけ父が高円寺のアパートに泊まったことがある。父は東北の方でお通夜、お葬式に参列した後、うっかり飲みすぎた彼は、飛行機を乗り過ごしてしまい私のアパートへと来ることになったのだ。実家は九州で、東北の友人宅へと行くには飛行機に乗り、新幹線に乗らなくてはならない長い旅路である。東北で新幹線を乗り過ごした時点で、父は、母にこっぴどく叱られたらしいが、ホテルを取るという母の言葉に、いや、りんご宅へ行くよ、と言ってやってきた。

「お葬式だけで良かったんじゃない?遠方だしさ。ご遺族の方もわかってくれるだろうに。お父さん、一応はシャチョーなんだしさぁ」とフラリと2人で立ち寄った居酒屋で私は言った。お父さん、居酒屋って初めてなんだよな!と父はウキウキしていた。

「お母さんもさぁ、なんかプンプンしてたよ。すっげぇ怒ってたし。そのうえ、飲みすぎで帰りの便を逃すなんて会社の人らも怒ってるんでは?」そう言うと、父はにやりと笑って、「うるせぇから切ったわ。携帯、嫌いだしな」と電源を落とした携帯を見せた。

「どうしてもな、行きたかったんだよ。最後のお別れにさ」と言いながら父は熱燗を煽った。

「この年になると、だんだん、周りの人間が亡くなっていくんだよ。俺は思うんだよな、人の生き方とか人生って、葬式の時にどんだけの人が集まるか……いや、集まってくれるか、じゃないかなって。例えば、結婚式なんてめでたいし、今後の付き合いもあるから、義理で呼ばれても行くだろ?そもそも招待とかされるわけでさ。でも葬式は違う。招待なんかされないし、商売なんかをしてれば、義理で行かなきゃなんない時もある。でもなぁ、俺は、俺自身の気持ちとしてはさ、俺が参列する葬式ってのは義理とかじゃないんだよ。その人への感謝、そしてご遺族の方たちへの礼儀っていうのかな」

当時、20代だった私にはあまりピンとこなかった。当時の父は50を少し超えたばかり。あの時の父の年齢に近づいている今の私には、わかる。人が亡くなるという絶対的な自然の摂理。年を取るということは、周りの人が亡くなっていくことが増えるという当たり前なのだけど、悲しい事実。

「商売してると、周りのいる人が必ずしもいい人ばかりとは限らない。好きな人間ばかりじゃない。今日、お葬式に行った人はさ、商売を通じて仲良くなった人だったけど、俺がものすごく大変な時に、東北から助けを出してくれた人でさ。遠くに住んでいて、実際に会ったことがあるのは本当に数えるほどなんだよ。それでも30年、ずっと付き合いがあってさ。死ぬには早すぎる惜しい人だったし、こんなことならもっと一緒に酒を飲んだりしたかったなぁなんて思ってさ。だから飲みすぎちまった。ご家族もびっくりしてたよ。だってほら、九州のあんな田舎からさ、東北までだもんなぁ。行って良かったし、お別れが言えてよかったよ」

しんみりとした父の口調に、私はそっかぁ……としか言えなかった。地元に住む父の子供の頃からの友人や、会社関係でよく会う機会のあった人達とはまた別の関係性の人。親から改めて「友人」と呼べる存在について話を聞くのは新鮮だった。

「お前、よく覚えとけ。結局、生き様ってのはさ、死にざまなんだよ。人生の最後の最後の時に、どれだけの人が集まってくれるか、どれだけの人が泣いてくれるか、そういうの、大事にして生きていくのが良いと俺は思うよ。ほら、死ぬ気で頑張れ、とか、死ぬ気で生きろとかよく言うだろ?でも人ってのは一人では生きていけないからな。だから家族だけじゃなくさ、周りにいてくれる人たちのことも、大事にして生きなきゃなんないんだよ。お前もさ、そういう風に生きな。今さ、大学で仲良くしてる人とかさ、これまでの友達とか、みんなよ」

こんな会話の数年後に父は亡くなってしまうことになるのだが、彼が身近に迫っていた死を予感していたのかはわからない。厳しい人ではあったが、自分の考えや生き方を子供たちに押し付ける人ではなかったし、人生を語る人でもなかったので、その会話を鮮明に覚えている。もちろん、『地方から突然、一人暮らしのアパートにやってきた父親を駅まで迎えに行った後、商店街にある安い居酒屋で2人で飲む』なんて経験をしたのも最初で最後だったせいもある。同時に、父はきっと大事だった人を亡くして、感傷的になっていたのだ、という事も今の年になって思う。

「わかった。うん、友達、大事にするわね」そう言った後に「それにしてもさ……お父さん、浮いてるよね、ここ。そんなスーツとかバリっと着てるの見るの久しぶりだしさ」と私が笑うと「そりゃぁ、いつもの作業着の方がいいけどよぉ、葬式だしなぁ」と父は笑い返し、飲め、飲めと言って私の杯に熱燗を注いだ。その夜は2人でしこたま飲んで、朝まで飲んで、酔っぱらった状態で父を送り出した。そんな父娘がまた母親に叱られたのはまた別の話。

そんなことから数年後、私は葬儀場から担がれて出てくる父のお棺を眺めていた。

葬儀場は人で溢れかえっていた。父の葬儀の日、県内、そして隣の県のお花屋さんから白い花、葬儀用の花が売り切れたという話を葬儀場の人から聞いた。葬儀場にあった大ホールだけでは人が収まり切れず、全部の式場を開放し、大ホールでの葬儀を見ることができるように各部屋にはそれぞれ焼香台と大型テレビが設置されていた。それをみた遠方に住んでいる父の姉が「ひろちゃん、芸能人みたいばい。こんな立派な式だなんて、芸能人みたいばい。よかったばい。うれしかばい」と呟いたので私はほんの少しだけ笑った。

父は農業資材を扱う仕事をしていたので、参列してくださった方々は、まるであの日の父のように高価なスーツをばりっと着込んだ企業の方々から、作業着のまま駆け付けてくれた農家のおじさん、おばさんまで様々だったが、それぞれの人たちが泣いていた。

父の病気は本人にも告知していなかったし、周りのほんの限られた人たちだけに知らせていた。だから、ほとんどの人にとって、彼の死は突然だったのだ。そんな事情があったから、通夜も3日に及んだ。だから告別式が終わった後、お棺が運び出されるのを見て、やっとゆっくり休めるね、と私は心の中で父に話しかけた。

生き様ってのはさ、死にざまなんだよ。人生の最後の最後の時に、どれだけの人が集まってくれるか、どれだけの人が泣いてくれるか。

覚えておけ、と言われた言葉を私はかみしめていた。それ以来、私もまた、彼がしたように、周りの人、友達と呼べる人を大事にして生きていこうと決めているのだ。

(続)






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