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読書雑記『今日もどこかの食卓で』

『今日もどこかの食卓で』イイホシユミコ/ 一田憲子/文 主婦と生活社

器を作るイイホシユミコさんからお話しを聞き、一田憲子さんが見て感じて解釈された内容が、読んでいてスーッと頭と心に入ってくる。一田さんが書かれる文章が好きです。真摯な取材をされているのが分かる、インタビュー相手の深い内面を丁寧に掘り下げている内容が興味深いです。

イイホシさんが語る言葉に対して一田さんの考察が素敵だなと感じた文章が、こちら。

立方体を作って、それに〝跡を残す”という課題が出た。けれど、何をやっても先生に「こんなことやって、何の意味があるねん」と言われ続けた。作っても作っても答えが出なかった。(中略)
「う~ん…………。立方体にどんな跡をつけるか。それは言葉にするときっと当たり前のことだと思うんですが、描いたり引っ掻いたりという技のようなものではないんです。たとえば、その立方体を手でボンと押したとしたら、手で押したということがわからないとダメ。筆で描いたら、筆で描いたことがわからないとダメ。筆で描いたような模様じゃダメなんです。それは何もかもにつながっていて、この素材を使ったなら、この素材を使ったものじゃないとダメ。このサイズの立方体で、この幅の筆を使うんだったら、この位置にこんな跡。それがあのときピタリとわかったんです。そういうことに答えはないんだけど、あるんだと思う」
 わかったような、わからないような説明だったけれど、私は深く納得した。それはたぶん、〝必然”ということなのだと思う。この世にただなんとなくあるものなんてない。本当の思いを伝える言葉がひとつしかないように、自分が進むべき道が1本しかないように、ものごとの真実はたったひとつ……。
 そして、私たちは、その〝ただひとつ”のものをコレだと捕まえなくてはならない。「これかな?」ではなく「これだ」と信じて、この手に握らなくてはいけない。でも、「これだ」と言い切ることが怖くて、その判断を後回しにしてしまう。いつまでも「これかな?」とお茶を濁しておきたくなる。けれど、決断しなければ、それが正しいか正しくないかさえわからない。決断して、間違えるからこそ、次の一歩が踏み出せるのだ。

以上、35~37頁より引用。

ようなものではなく、これだというものを。創作において作りたいと思っている自分に、このお話しが響きました。私事でいえば、小説のようなものではなく小説を書きたい! という思いに通じるなと。

もの作りにおいて、自分の正解を見つけられること。

とても憧れます。


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