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青い炎を絶やさずにいれば、人生なるようになる。
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世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています。―― ヘレン・ケラー
この言葉を見つけた瞬間、1人の友人のことが頭に浮かんだ。
しんみはるな(以下:はるちゃん)だ。
彼女とは、POOLO JOBという株式会社TABIPPOが開催するトラベルライター養成講座で同じチームになった。明るい笑顔で、お花みたいに朗らかな女の子という印象だったが、話を聞くうちに、彼女はヘレンケラーのように多くの困難を乗り越えてきた人だと思った。
弟の突然の死、上京・移住など、様々なことを乗り越えてきたはるちゃんが、「幸せに生きてみよう」と思ったきっかけや今までの自分を振り返ってもらった。
はるちゃんの生き方を通して、「前向きになる」ヒントを見つけてもらいたい。
▼はるちゃんプロフィール
1988年12月6日生まれ。三重県出身。
2013年~東京。2020年8月~鹿児島県長島町在住。
フリーライターを経て、現在は長島町役場に勤務し、町のPRを担当。
根アカな陰キャ
ーはるちゃんは明るくて色んなことに前向きに挑戦している印象があります。それは昔からですか?
前向きかというよりも、「根は明るい陰キャ」の方がしっくりきます。
もともとの性格的には明るい方で、楽しいことが好きで、やりたいことは頑張ろうと思えるポジティブさがあります。ただ、学生の時のいじめを受けた経験から、人と関わるのを諦めて引っ込み思案になっていた時期もあります。
大好きな弟との別れ
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ー今のはるちゃんは積極的に周りと関わろうとしている印象があったので、引っ込み思案だったのがすごく意外です。人と関わろうと思ったきっかけは何かあったんですか?
弟が交通事故で亡くなったことが大きかったです。弟のお葬式に、300人くらい彼の友達が来てくれて。大学のよさこいのサークルに入っていたこともあり、そのメンバーとかが来てくれて、弟の話をしてくれました。
弟は人懐っこくて、周りから愛される人で、昔から憧れていました。そのお葬式でさらに憧れが強くなって、自分も弟のようになれたらいいなと思うようになりました。そこから、人と関わってみようと思うようになったんです。友達がいて、幸せな人生を送れるようになってみたいと思うようになりました。
あと、1人の人生が家族や周りの人の人生に大きな影響を与えるということを、弟が亡くなったことですごく感じました。それまでは、生きている意味あるのかなとか思っていたこともあったけど、そんなこと言ってられない。「生きよう」と思うようになりました。あと、どうせ生きるって選択したんだから「幸せ」に生きてみようと思えるようにもなったんです。
ーかなりショックな出来事だったと思いますが、そこで「幸せに生きてみよう」と思えるのがすごいと思います。弟さんとの別れからどのような変化がありましたか?
弟が亡くなったことをきっかけに、家族でいつ誰にどんなことがあってもおかしくないから自分達がやりたいことをやろうという話になって。その時に「私は東京にいきます」と宣言して上京することを決めました。
昔から「東京=夢と自由に溢れた街」というイメージがあって。テレビでみていた渋谷の109や表参道の景色や、芸能人がたくさん住んでいる場所だと思っていたので、ミーハーな気持ちから東京に憧れていました。モーニング娘。や浜崎あゆみのように、田舎から東京に出てキラキラなスターになっていく姿にも影響を受けていたかもしれません。
上京したいという思いはずっとあったんですが、両親から反対があって、東京に出ることを許可してもらえず、私の人生は親の意思で決められていくのかと思っていました。そんな時に、弟のことがあって、両親から初めて上京を許してもらえました。
念願の上京
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ー念願の上京だったわけですが、上京した時の気持ちはどうでしたか?
東京に仕事の当てがあったわけではなく、何にも決まっていない状態で飛び出してきました。当時、家入一真さん(現:CAMPFIRE代表取締役)が六本木でシェアハウスをやっていて、そこに声かけてもらって、住むことになりました。
ずっと夢だった東京でしたが、きっかけがかなりショッキングな出来事だったので、正直記憶が曖昧な部分があります。弟が亡くなってから1年間くらい怒りや悲しみの感情しかなかった気がします。今振り返ってみると、気持ちがだいぶ落ち込んでいて、鬱みたいな状態だったのかもしれません。
自分の気持ちを整理できるまで、1人でいるよりも誰かと一緒に住もうと決めて、シェアハウスに入居することを選びました。シェアハウスに住んだことで、否が応でも周りの人がいて、感情が動かされる生活環境だったので、感情の動かし方をちょっとずつ取り戻せた気がします。
ーシェアハウスでの生活を経て、ちょっとずつ気持ちが前向きに変化したんですか?
すぐに前向きになれた訳ではなく、ちょっと前向きになれたと思えたのは、上京してから3年くらいたった時です。
東京に住んでいたのも良かったのかもしれません。
周りになにを言われても、夢を叶えようとしている人がたくさんいて、小さい頃に憧れていたスターみたいな人たちが近くにいて。私もやりたいことを胸を張って言えるし、恥じなくていいんじゃないかと思えました。誰も周りの人のことを否定しない環境だったからこそ、行動できたのかなと思っています。
上京して3年くらいたった頃に、夢だったラジオのDJとか作詞活動とかも経験できたし、せっかく東京に出てきたのにこのままダラダラ行くのも違うなと思うようになりました。
ーラジオDJやったんですか!?
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上京して1ヶ月くらいの時に、家入さんが当時DJをしていたラジオ番組に呼んでいただいて遊びに行ったら、家入さんの代わりにDJをすることになりました笑 毎週日曜日の夕方に生放送の番組で、1年とちょっとDJを担当していました。
DJになったのはいいものの、ゲストの人に、何を聞いていいのか分からなくて3秒以上黙ってしまって放送事故をよく起こしてました笑
みかねたラジオ作家さんが一言一句セリフを書いた原稿をくれたり、友達にダメMCとかいじられたりしていましたね笑
今振り返ってみると、毎週生放送で、絶対その場にいないと行けない、よく知らない人とコミュニケーションを取らないといけないというのが、ありがたかったです。
ラジオをやっている子として周りの人に認識してもらえたり、自分自身のアイデンティティが1つできた感覚があったのも嬉しかったです。
ーいきなり任されたラジオDJを1年ちょっとやるってすごいですね。人への興味を持つようになったのはこのくらいの時期ですか?
もうちょっと後ですね。憧れてた東京に来ることができて、夢をちょっと叶えられたけど、人との関わりの希薄さが問題だなという意識がありました。
作詞活動をしているときは、クライアントさんだったり音楽業界の人とのコミュニケーションはとっていたんですが、普段の日常生活の中で、人とのコミュニケーションをどうやってとったらいいか分からなかったんです。
作詞をしているときに「書くこと」を評価していただくことも多くて、「書く」仕事からコースチェンジをしてライターやコピーライターだったり、「もっと広く世間に商業的に関われる仕事」に興味を持つようになりました。
「書くこと」を通じて、広い人と関わってみようと思ったんです。
そこで、ライターの講座に通おうと思って、「宣伝会議」のコピーライター養成所に通うことにしました。
ー行動するのには勇気がいると思うのですが、何かきっかけがありましたか?
コピーライター養成所には興味があって調べてはいたんですが、1年くらい迷ってました。
当時、最初とは別のシェアハウスに住んでいたんですが、その時のシェアメイトが広告代理店に勤めていたんですね。その子から「コピーライターとか向いていそう」という後押しがあったのが決断できたきっかけです。
少しずつ前に進んできた
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ー環境の変化と周りの人の後押しがあったからこその決断だったんですね。その頃から気持ちが前向きになってきた感覚がありますか?
少しずつ気持ちが変化した気はしますが、
私自身は前向きになることが全てではないと思っています。
どちらかというと、生きるって選択をしたんだから頑張れよって自分自身を鼓舞しながらやっていて。
今まで人間関係の構築を避けてきたという認識があるからこそ、弟のことがあってから学び直してみようと思って行動をしてきました。
弟が亡くなってから今年で10年経ちますが、10年間をかけて少しずつ気持ちや行動が変化したなという感覚があります。
ーかなり濃い10年間だったと思うのですが、振り返って一番大きな変化だと思う点はどんなところですか?
「人と向き合おうとするようになった」のが一番大きな変化です。
それは、東京の後に鹿児島県長島町に引越ししてから特に変化がありました。東京から長島町に引越ししてきて、東京とは全く違うカルチャーのなかで生活していく中で性格に変化がありましたね。
東京では人との距離感を学びましたが、長島町では言いたいことをはっきり言う人が多いんです。「あんたのそういうところ良くないよ」とか思ったことを伝える人達に囲まれて生活する中で、段々と周りの人から教わって、嫌なものは嫌と伝えられるようになりました。
それに伴って、自分がやりたくないことは極力やらないとか、自分の心がモヤモヤすることはやらないというように行動面も変わった気がしています。
必要な嘘はあると思いますが、人に対して誠実でいようと思って行動するようになったのが大きな変化だと思います。
青い炎のように
ー素敵な変化ですね。最後の質問で、今の自分が過去の自分を振り返ってみた時に言葉をかけてあげるとしたらどんな言葉をかけてあげたいですか?
宣伝会議を受講しているときに、講師の方から言われた一言を言ってあげたいです。
私は、自分が作ったコピーに自信がなくて、仮に1位をもらったとしても不安がずっとあって。そんな時に講師の人からかけてもらった言葉です。
「しんみのいいところは自信がないところ。クリエーターは自信を持ったら終わり。怖がって、これでいいのか、もっとよくできたんじゃないのかと思える人は、いいクリエーターになれるよ。」
「しんみは青い炎。赤い炎みたいに大きくメラメラして強く見える炎もあるけど、小さくて地味な青い炎の方が実は温度が高いんだよ。自信がなくて大丈夫かなって不安な気持ちも持ちながら、その青い炎を絶やすなよ。」
その言葉を聞いて、「自信はなくてもいいけど、自分が大事にしたいことや情熱、譲れないものを大切に生きていったら、なるようになる。」って思ってます。
その言葉を過去の自分にかけてあげたいです。
弟との別れというショッキングな出来事から、行動していく中で少しずつ気持ちが変化してきたというはるちゃん。どんな状況においても、自分が大切にしたい芯を持ち続けてきた彼女が、これからどんな活躍をしていくのか目が離せない。
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