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「汎水論」ノート06

長編詩「汎水論」を書きはじめた2015年8月からのメモ書きノートに少し手を加えながらテキストデータにして残そうと思います。さらに、当時の読書のことなどを思い出しながら、少しの追記を試みます。


「汎水論」ノート06


武満徹 樹の鏡、草原の鏡
無にまで凝縮された一音に無限定な全体を聴く

異なった声が限りなく谺しあう世界に
       唯一の声を聞こうとする

黯(くら)い 蒸留物 窪み 匿しもって

さわり 水脈

 隠された水脈と鉱脈が錯綜するここ
      水は地盤をゆるめ咽喉をうるおす

光っているということは音が出ているということ
 電波天文学 「星を聴く」

音の曲率  音の捻率

間はいかにしてつめるかということから音楽ははじまる

白色雑音


(追記)
このメモは、主に武満徹『樹の鏡、草原の鏡』(新潮社、1975年9月30日 発行、1992年11月5日 7刷)からの抜き書きらしい。


武満徹『樹の鏡、草原の鏡』(表紙) 新潮社、1975年9月30日 発行、1992年11月5日 7刷
装幀・デザイン・カット 宇佐美圭司


ノート初めの「無にまで凝縮された一音に無限定な全体を聴く」は、「磨かぬ鏡」と題されたエッセイの最後に書かれてあった。

▼なぜ、日本人は無にまで凝縮された一音に無限定な全体を聴こうとするのか? なぜ、邦楽は関係のなかに在る音楽ではなく、反ってそうした関係を断つところに形をあらわすのであろうか?

――このエッセイのタイトル「磨かぬ鏡」にはカタカナで「ミガカヌカガミ」とルビが、不思議なことに逆さまに振られている。

冒頭で、文字を持たない民族、例えばアメリカ・インディアン、エスキモー、アイヌ、ポリネシアなどの音楽に強く魅(ひ)かれていることから書き起こされ、ハワイの原住民に伝わるフラ・チャントを聴いたときの、独特の律動的有節音(リズミック・アーティキュレーション)への強烈な印象などが語られる。

▼ハワイ語がもっている、母音の中間的彩りとそのグラデーションの繊細な美しさは他に類例を見出せないとも言える。……フラ・チャントにおいては、ひとつのフレーズを一息でうたうか、途中で息を接ぐかによって、おなじ言葉の配列でもその意味が異なってしまうのである。

そして、印度の音楽家ラビ・シャンカルの言葉が引用される。

▼古い書物を読むと、音には二つの種類――一つは天空の、または天に近い、いっそう澄んだ精気の振動、もう一つは地に近い、より低い大気の振動である。天空の振動については、ピタゴラスが紀元前6世紀に書き表わした天球の楽音と同様のものだと考えている人もある。これは常に存在し、変わらない宇宙の音である。この音は何ら物理的な衝撃によって生まれたものではないので、アナハタ・ナーダすなわち「無為の音」とよばれている。もう一種類の音は常に物理的な衝撃によっているところからアーハタ・ナーダすなわち「有為の音」とよばれる。後者の場合には、ある瞬間に振動が与えられると音が作り出され、振動が止むと同時に音も消える。無為の音はヨーギにとってはたいへん重要なものだ。それは彼らが内面から聞きたいと求めている永遠の音で、長年にわたる思索とヨーガの鍛練を経て、はじめて達成可能となるのである。

これを受けて、武満徹は、▼「この実際には耳には知覚しえない形而上的な「音」の観念は、また、「有意の音」と切離して考えられるものではなく、ヨーガの瞑想は、これらの「音」を超えた、つまり、思考(知)と感覚(情)のいずれにもとらわれることのない絶対の行為であると考えられる。その時、この肉の管は一個の簫(しょう)と化して、その「生」を響かせるのである」と書く。

鍛練によって、簫と化した肉体の管が奏でる「有意」の震動音は、微妙で複雑な揺らぎを孕みつつ、「無為」の音、宇宙的生命の響きへと昇華する——。

▼喇嘛(ラマ)僧のあの低く地を匍うような声、中南米インディオの山脈(やまなみ)の稜線を刺繡するように響く声、潮のように緩やかに満干(みちひ)するフラ・チャントの声、それらの多くの異なる声の響きがわたしたちに示しているのは、だが、ただひとつの生命なのである。


ノートの次の「異なった声が限りなく谺しあう世界に唯一の声を聞こうとする」という言葉は、「磨かぬ鏡」の後に続くエッセイ「暗い河の流れに」の冒頭部分にあった。

▼異なった声が限りなく谺(こだま)しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの内側でかすかに振動しつづけている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである。


『子午線――原理・形態・批評 Der Meridian Vol.4』(書肆 子午線、2016年2月10日 初版発行)に掲載していただくために、「汎水論」を書き始めた2015年の夏頃から、武満徹さんの本をよく読み、音楽をよく聴いていた。ピアノ曲が好きで、《閉じた眼》《ピアノ・ディスタンス》《遮られない休息》《雨の樹 素描》などが入った『高橋アキ plays 武満 徹』というCDを繰り返し聴いていた。


『高橋アキ plays 武満 徹』


「汎水論」の構想は、湧出する水を北と南へと分ける分水嶺の地である郷里から、北(日本海)、南(瀬戸内海)へ川筋を辿るというもので、川沿いの土地土地の地名から、その土地の地声のような響きを聴き取ろうとして、地図を逍遥していた。それら無数の地声を、微妙な揺らぎに満ちて立ち昇る簫の一音のように束ねては解し、紙葉に、文字による「川」を形成できないだろうか、と考えていた。試みの試行錯誤には、武満徹さんの音楽と文章が必要だったと思う。


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