見出し画像

文字の翳、声の甦り

朗読ではもちろん黙読する際にも、文字を読むとき、私たちは意識的・無意識的に文字を音声に変換させている。そこでの文字とは何だろうか。音声を呼び寄せる媒体的形象にすぎないのか。

文字の形象それ自体は意味をもっているのか、いないのか。音声を伝える媒体としての文字ではなく文字そのもの、その形象そのものは存在しないのか、仮に存在したとしても、そのように純粋な形象としての文字はもはや無意味な線や点に還元された糸屑の塊に成り果ててしまうのだろうか。

文字を「読む」とは文字を「聴く」ことにほかならないのか。文字にはあらかじめ音声が潜在しているのか、いないのか。では文字を目で指でなぞってみればどうだろう。文字から音声を「聴く」ことを斥けて、形象だけをただなぞること。音声化して読むことを妨げられた読み手は、文字らしきものの形象を目で、指で探ることを強いられる。そのような探りは、無意味な線や点が散りばめられた書面から、ふたたび浮かびあがる文字の形象そのものの翳への注視をうながすだろうか。あるいは単に読めない糸屑の塊として目を逸らされてしまうだけだろうか。

無意味な線や点に還元されたすでに文字ならざる文字の配列はもはや言葉の廃墟にほかならない。しかしそのような文字の廃墟の風景をもう一度、霞目であろうと間近に眺めること。その廃墟の靄のなかをふたたびみたびさまよいながら、朧げな文字の形象そのものの翳を注視すること、その翳の縁で震えるように惹き起こされる文字のあらたな褶曲から、声の甦りに聴き入ること、そのようなことは可能だろうか。


孫曰く、「昔の字」。


8月2日(金)の夜、小学2年生の孫が剝がした7月のカレンダーの裏に書いたもの。孫曰く、「昔の字」。私は書くところを見ていないが、見ていた妻が言うには、何かブツブツ呟きながら書いたらしい。これは文字擬きの判読不能な形象(ドローイング?)だが、文字の発生とはやはり発声と密接な関係を結んでいたのだろうか。じっと眺めていると、何だか解らないが、確かにざわめきが聴こえてくる。

翌朝、「何て読むの?」と尋ねると、孫は「忘れた、読めるけど、忘れた」と言う。よく分からないけれど、「読めるけど」ということは、これらの文字(擬き)が読み方=音声を持っているということか。黒い文字(擬き)は縦書きで、左から右へ読み、紙の右上の赤い文字(擬き)は横書きで左から右へ読むらしい。


2008年『現代詩手帖』12月号(表紙)


詩集『干/潟へ』を上梓した2008年の『現代詩手帖』12月号、アンケート「今年度の収穫」で、倉田比羽子さんが拙著を取り上げて評してくださった言葉――

▼「『干/潟へ』の場合、思考の拠り所となっているのは、宙吊りとなった人間と自然との相対的な営み、自然についての特質が基底にあるようです。その試みは、いったんは死んでしまった文字、記号に特別な位置、時間をあたえ、整然と記述されたそれら文字、記号に声の痕跡を、声のよみがえりを探し求めてゆく、ことばと声の融合が音を立てはじめます。発想のゆくえは主題をこえてあやうくはばたくことが詩のことばの根源にあると思います」。

文字の形象性そのものとは何かについて、文字と声の融/離、文字の翳と声の甦りについて、これからも考え続けること。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?