《宇佐美圭司「大洪水」》展
昨年7月28日(土)に、高崎市の「ガトーフェスタハラダ 本社ギャラリー」で観覧した《宇佐美圭司「大洪水」》展の記録です。
2018年、東大の学生食堂に展示されていた宇佐美圭司の作品《きずな》(1977年)が、食堂の改装工事中に、廃棄されてしまった事件は衝撃的だった。その後、2021年4月から東大駒場博物館で「宇佐美圭司 よみがえる画家」展が開催され、あの廃棄事件は宇佐美作品再評価の契機となる。
ガトーフェスタハラダは、「王様のおやつ、ラスク」で一躍、全国に名を馳せた製菓店。高崎市に2つある工場は、パルテノンを思わせるギリシア風の列柱建築。新町本店工場では、ギャラリーを併設し、アートの個展やクラシック音楽のコンサートなども開催している。月~土曜日は無料工場見学会を開催していて、この日は観光バスも停まっていた。素焼きのラスクが振る舞われ、無料で珈琲もいただけるらしい。
宇佐美圭司の作品を初めて見たのは、池袋のセゾン美術館での展覧会だったと思うが、記憶が曖昧。図録を購入したはずが、本棚に見当たらない。「美しいなぁ」と見惚れながらも、あの4つの人型には違和感を抱いた。1965年8月、アメリカ合衆国のワッツ市(カリフォルニア州、現在はロサンゼルス市に吸収)で発生した「ワッツ暴動」を撮影した報道写真から抽出した、「走る男」「立ち止まる男」「屈む男」「投げる男」の4つのシルエット。それを基本形として「円」に閉じ込め、さらにその型を複雑に重ね合わせる工夫も試みられている。なぜ、この4つを基本形としたのだろう。なぜ、「円」の中に閉じ込めたのか。構図や色彩は、見る者をとろけさせるほど美しいのに、この人型が何なのかを知った途端、なぜか白けて、引いてしまった。
宇佐美圭司の独得の「形態論」――《形態とは、基本形の素材となった4人の型のような、任意に選ばれた形を指すのではない。任意の形の構造的規制から派生してくる形――私はそれを形態と名づけ、形態発生の種々相をできごととして表現したいと思う。はたして4人の人型のつくる叙事詩は可能か。》
つまり、4つの人型基本形の構造的規制から派生してくる形が「形態」と呼ばれ、「形態」が発生する種々の相を出来事(事件)として表現すること。単純な輪郭のみの複数の形が絡み合い、重なり合うことで生まれる関係相、そしてそれら幾つもの関係相が複層する更なる関係相、それらそのものが「形態」なのだろう。それは、たとえば《杜子春》など、宇佐美作品の「絵画的語りの機能」を誘発する。あるいは宇佐美作品における「絵画的語りの機能」は、4つの人型基本形の相乗から生まれる複層的な「形態」そのものが胚胎している。
中田力(つとむ)氏という脳科学者の著書『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』(紀伊國屋書店、2006年10月21日 第2刷発行)で、初めの方に書かれている印象的な言葉——▼「生体の中で機能を持つためには、特殊な形態を作り上げる必要があるのである。生体における機能の実体は形態なのである。」
しかし、宇佐美さんの場合、その「形態」を発生させるための基本形が、なぜ《ワッツ暴動》の報道写真から選ばれた4つのシルエットである必要性があるのかが分からない。それは何でもよかったはずがない。
ガトーハラダ・ギャラリーでのメイン展示作品は、3×6mもの大作《制動・大洪水》(2011-2012)。人型と円の渦。圧倒される。螺旋を巻いていたはずの渦が、攪乱されている。不意に、《ワッツ暴動》から抽出した4つの人型は、それほど重視する必要はないのではないかという思いが湧いてくる。単なる「人の姿勢」の4つに過ぎない。宇佐美さんは人の姿勢から4つの姿勢を恣意的に抽出し、その4つの姿勢だけで人類の歴史を抽象しようとされたのではないか。暴動や戦乱、苛烈に渦を巻く人々の歴史を外側から獰猛に攪乱する時々の自然の猛り——。この大作は、2012年に完成し、宇佐美さんが亡くなられた後、静岡県三島市の「大岡信ことば館」(2017年11月に閉館。収蔵品は明治大学に寄贈)で初めて展示されたという。宙吊りにされて。
2Fへ上がると、本展を企画された「rin art association」(時々、訪ねる高崎駅東口近くのギャラリー)代表の原田崇人さんという方がおられ、ご親切に詳しい作品解説をしてくださった。2Fには宇佐美さん18歳頃の水彩画《建築・反建築・めぐり》という連作3点があり、原田さんがおっしゃるには、ごく若い頃から「めぐり」というテーマが宇佐美さんにはあり、それは最晩年の《大洪水》にまで連綿と繋がっているとのこと。そして、《制動・大洪水》は当然、2011年3月11日の東北・東日本大震災を連想させてしまうが、実は「大洪水」というテーマは、本展で展示されている2007年のドローイング《大洪水の予感》の頃から既に始まっていたもので、その端緒は、レオナルド・ダ・ヴィンチ晩年の素描《洪水》からの影響なのだという。
原田さんは「下のを見ましょう」と、2Fからわざわざ1Fに展示されている大作《制動・大洪水》の前まで誘ってくださり、いかに「めぐり」というテーマが宇佐美さんにとって重要であったかを説明してくださった。私は積年の疑問「なぜ4つの人型なのか」を尋ねてみた。原田さんは躊躇なく、「あれは人型というよりも人の〈記号性〉の抽出です。絵画に〈記号性〉を導入したということだと私は捉えています。」と応じられた。
原田さんにお礼を述べて別れてから、しばらく《制動・大洪水》の前に佇む。大洪水にのみこまれ、のたうつひとびとのむれと見えながら、「なんという美しさだろう」と身震いする。「制動(ブレーキ)」とは、人類の螺旋状の「進化」を攪乱する自然の猛威の不意打ちのことか? もはや4つの人型は溶融し、「型」という概念は消え失せ、《人類の叙事詩》がそこに渦巻き脈動している。
和歌山県立近代美術館 副館長 奥村泰彦氏の文章。
「大洪水」が指し示すものとは
「大洪水」は、宇佐美圭司の早すぎる晩年において、制作の中心となった主題である。その作品の通奏低音とも言うべき記号化された4つの人型は、ロサンゼルスでのアフリカ系アメリカ人の暴動を伝える写真から抜き出されたものであり、肌の色という避けがたい理由に基づく抑圧への抵抗が内在している。宇佐美はむしろ、この人型を歴史的な背景から切り離し、調和した宇宙を構成する要素として長く用いてきた。転機となったのが2006年の個展「人型/かたちを暴動へ還しに」だろう。困難に抗う意志の表明を、その題名に読み取ることができるのではないか。「大洪水」という題名が現れるのはその翌年である。東日本大震災を経験したわたしたちは、これらの作品群に予言的な印象を抱くかもしれない。確かに宇佐美の作品は、遠くレオナルドやデュラーが幻視した、世界の終末へのおののきに共鳴する、予言的な性質を具えている。とはいえここで予言とは、具体的な災害の有無にかかわらず、不可避の運命への抗いを表明するものではないだろうか。
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