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この蜜柑

 仕事中、不意に芥川龍之介の「蜜柑」を読んだときに思い描いた情景が瞼の裏を横切っていった。
 寒い季節の水で溶いたような薄い空を背景に、つややかな蜜柑が柔らかく弧を描く。放る手は小さく細く、寒さで赤くなっている。ぴんと伸びた指先が、蜜柑の描く軌道と重なって翻る。下の子たちに確かに届いてほしい、と祈っているかに見える。私もいっしょになって祈る。
 自分の立ち位置がどこなのかはわからんが、手のほかに少女の姿は視界に入っていない。主人公に自分を重ねたり、その場に立っているというよりも、写真に似た感覚のものなのかもしれない。自分の目で見ているというより、画角の決まった四角い窓を見ているのに近い。静止画なのは私が写真を撮るのが好きだからかもしれない。本を読む人たちがどんなふうに情景を頭に描いているのか、聞いて回ってみたい。

 美しい情景が行き過ぎてひっそりと爽やかな心地を味わっていたが、ふと疑問が湧いた。蜜柑の解像度が高すぎる。はっきりと、それこそ少女の手よりも具体的に、目に浮かぶ。焦点が合う。この蜜柑は果たしてどこで見た蜜柑だろうか。実家で食べていた蜜柑より遥かに上等に見える。傷ひとつなく、手本のような蜜柑色。見ただけでなかみがぎっしりと詰まっているのがわかる。出稼ぎにいく少女が放るには少し上等すぎる気もする。どこの蜜柑だろう。
 と、記憶を探ってみたところ、おそらくこれは落語の「千両蜜柑」だと思われた。聞いた当時、つやつや、ふっくら、というような形容から想像した、架空の、私の頭の中にしか存在しない最高の蜜柑だ。道理でうまそうなわけである。「千両蜜柑」を聞いた当時は高校生で、想像力も記憶力も今よりよほど豊かだったから、こうもくっきりと頭に残っていたのだろう。
 頭の中で最高の蜜柑を弄ぶうち、喉の奥に蜜柑を飲み下す瞬間の香りと冷たさが蘇っていても立ってもいられない心地になる。今の時代なら病むまでもなく蜜柑にありつけるだろうが、食べられる蜜柑で満足できるだろうか。今食べたいのは最高の蜜柑なのに。

 さてここまで書いていて、芥川龍之介の「蜜柑」は夕方の話だった気がしてきた。ネット上に公開されているはずなので今すぐ確かめてもいいのだけれど、晴れた空に少女が千両蜜柑を放る、というのはなんとなく楽しい光景なので、しばらくはそのままにしておきます。

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