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シン・エヴァンゲリオンを観たので熱の冷めないうちに雑記

シンエヴァを見たので、雑感を述べておく。
決して僕はエヴァの大きなファンではないけれど、その物語に描かれている孤独や葛藤や人生問題のとらえ方に共鳴する者の一人である。
良い作品というのは、細かなディティールにこだわる製作的側面と、価値観を我々に押しつけてくるような芸術的側面が同時に訪れる。ぼくは文章において庵野監督が作り上げた製作的側面、あるいは細かなディティール、雰囲気としての映画的道具の使い方、その全てを拾い上げる自信が毛頭ない。あくまで感じているだけにすぎないと思う。かっこいい機械やかっこいいセリフ、かっこいい舞台の全てを演出していること自体はまずをもってエヴァンゲリオンの魅力になっている。けれど、ぼくはこれについて文章で語り尽くす自信はない。だから、取り急ぎエヴァの芸術的側面、あるいは物語としての意味を吸い上げていきたい。ぼくはまだ一回しかこの映画を見ていないけれど、それでも容易に感じ取ることのできたストーリーにおける象徴的意味を、少しだけこの場で整理したい。

これ以後はネタバレが全面的に展開される。ご存知のように、多くのエヴァンゲリオンファンたちがバトンを渡すかの如く守ってきた「ネタバレ厳禁」のルールを読者の皆さんも守っていただきたい。
この文章もまた、読者が映画を見た後の感想戦の一つとして、読んでもらえたら幸いである。

1.時間

皆が知っているように、シンエヴァは9年の時を経てやっと公開された。それは一つとして、映画にも(ストーリーテラーである)庵野監督にも時間が必要とされたということを示している。
シンジという男は旧劇で時間を得ることができなかった(そして精神崩壊した)。
シンエヴァと旧劇の違いは「時間の長さ」である。ケンスケがいうように、シンジには時間が必要だった。傷を癒すということには時間が必要とされた。これは僕たちがある程度の(大人になるための)時間を経ていたらわかることである。そして、時間はシンジを成長させた。これは酷くリアリティのある話である。僕たちの生活をもっとも過激に変えるものは時間だ。別離や喪失、孤独といった変化もまた僕たちを過激に変えてしまうものだけれど、それと同じくらい僕たちを時間は変えてくれる。シンジに必要なのはきっかけでも母親でも恋人でもやさしさでもなく、おそらく時間であった。アスカはシンジが意識を変えてもなお罵倒していたが、最後にはアスカよりもシンジの方が時間によって過激に変化していた。綾波の初期ロットは時間をかけてやさしさを与えていたが、シンジを本質的に変えたのは結局時のところ時間であった。繰り返すが、これには妙に真実味がある。僕たちは現実の世界でそういうことを多く経験してきたはずだ。時間は心の傷を癒やしてくれる。それこそが、シンジの成長における妙なリアリティである。

2.イマジナリーとリアリティ

カヲルくんは終盤にシンジのことをこう言っていた。シンジくんはとっくにリアリティの中で成長していたのだと。シンジは本編前半におけるリアリティある現実を背負う。そして、それは最も地に足のついた生活をしていた綾波初期ロットからバトンを渡される形で表現されている。田植えや風呂や赤ちゃんを見守ることの一々が現実的な生活であり、そのようなものを綾波初期ロットを通して、シンジは暗喩的に受け取ることとなる。そして、最後、シンジはヴンダーの中において自らの出る幕まで時間をかけて待ち続けている。
シンジは主要なヴンダーの乗組員の中で唯一リアリティを背負っていた。ミサトさんもアスカも他の乗組員も、イマジナリーの亡霊に取り憑かれていたことが見てとれる。ある人はニアサードで死んだ家族のため、ある人は加持リョウジのため、イマジナリーな世界に対して強いしがみつきを見せている。このしがみつきもまた人それぞれである。葛城ミサトにとって、それは過去の贖罪を晴らすことと同義であった(だから死んだ)。本編の結末直前、裏宇宙において、シンジはゲンドウを含む全てのイマジナリーに囚われている人々を解放していく。旧劇のあの舞台でアスカに好意を伝えることはもはやガキのやることではないし、綾波・アスカ・カヲルの虚構性(=作られた存在であるという劣等感)を解放していく。そして、ゲンドウという男(=喪失体験)をも時間とリアリティをもってして解放していく。大事な人を失った、という圧倒的な喪失すらも、リアリティを孕んだシンジは解放できるようになっているのだ。
時間を経たことによってリアリティは僕たちの元に回復する。そして、そのリアリティが本当の意味でイマジナリーなものと接続する。イマジナリーに囚われている人々をリアリティは元の世界に戻すことができる。そもそも、イマジナリーなものというのは、そういう形で世の中にあるものなのかもしれない。シンエヴァはどうしてもそのように思えた。時間をかけることによって本当のリアリティが獲得され、イマジナリーとも接続することができるようになる。喪失や孤独、欠落も全て時間と、時間をかけて得られたリアリティが包み込む。僕にはそのようなもののように思えて仕方がない。

3.リアルへの帰宅

僕にとってシンエヴァのラストシーンは決定的なものであった。そもそも、全てのエヴァンゲリオンが消えてしまう。過去との決別とはいかなくても、まるで過去の喪失や孤独との和解を達成しているようだ。ここで、映画の一部シーンが絵コンテ調に変化する。まるで、「現実ではこうやってアニメ映画を作っているんだよ」と視聴者に教えているかのように。そして、マリという新劇場版から登場した新しいヒロインと最後に再会する。これはエヴァという作品が新しい方向に目を向けていることの意思表示のように思える。
そして、最後に別人のシンジとマリが共に駅を出るシーン。シンジの声優は神木隆之介になっていた(僕はこれだけでも新海誠をはじめとする現代アニメ映画の意識を感じざるを得ない)。2人は映画という舞台から飛び出て、リアルな表情の(ドローン撮影された)駅構外に出る。そして映画は終わる。現実というはこういうものであると示しきったかのように。
シンエヴァの真髄はリアリティの復刻にあると思えた。ぼくはこの結末にとても満足感があった。時間が経てば、人はこれほどまでに変化する。その妙だがみんなが知っているリアリティによって僕たちはイマジナリーなものと付き合うことができている。そのようなメッセージを僕は受け取った。

雑記は以上である。あくまでこれは感想に過ぎないし、感想は人それぞれである。こんなにも面白い作品を享受できていること自体がうれしいものである。

いつかエヴァンゲリオンのような熱狂をまた手にいられることを祈って。



以上。

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