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不合理という名の合理

こんにちは。
りょーすけです。

みなさんには、それはやるべきではない、やってはいけないと考えていることをやってしまった経験はありますか?

僕はたくさんあります。

たとえば、大学の授業です。
大学の授業ってとんでもなく退屈なので、1回に1回サボりたくなるんですよね。
ですが、欠席したら落単に一歩近づいてしまう。
だから行かなきゃってなるんですけど、どうしても身体が重くてサボってしまう。

他にもゲームだったり、朝寝坊だったり、食べすぎだったり、夜更かしだったりとたくさんあると思います。

それを辞めることが合理的に考えれば正しいはず、でもついついやってしまう。
どうしたらいいんだ?
と悶々とする日々が続く。

こんな経験ありますよね?


しかし、こうも考えられると思います。

自分は、それをやりたくてやっているということです。

どう考えても、やらない方がいいのに、自分も辞めたいと思っているのに、それをやってしまうのはなぜか?

自分が本当は、それをやりたいと思っているからです。

明らかに不合理な行動を(辞めたくても)とってしまうのは、自分が不合理なことをしたいという欲求にとって合理的な行動だからです。

「そんなことない!」と思うかもしれません。

ですが、これは潜在意識の働きなので、自覚するのは難しいと思います。


僕自身を例にとってみましょう。

僕の中には、「講義に出席せずにサボりたい」と願っている潜在意識があります。

それにとって合理的なのは、自分が講義をサボる人間になることです。

そうなってもらうために潜在意識は、ある感情を作ります。

それが、「講義に出席しなきゃ」です。
その他にも、講義に出席しなくてはいけない理由をたくさん作りだします。

同時に、「それでもラクしたい。サボりたい。」という感情を作り出します。

この2つのせめぎ合いを、自分の中で作り出すのです。

ヒトは楽な方に流れていくので、たいていは楽な方を選びます。ここでは、サボる方に流れて、講義を欠席してしまいます。

そして、そのたびに「ああ、行かなきゃいけないのに、サボってしまった。自分は行かなきゃいけない講義を、サボってしまうんだ。」と自分への刷り込みが入ります。

そのたびに、講義にサボる自分が出来上がっていき、潜在意識の目的は達成されていきます。

これが、不合理という名の合理です。

傍からだと不合理に見える行動も、深層意識からすれば合理的なものになっているのです。

これは、習慣化においても言えることです。

たとえば筋トレを習慣化しようとします。

潜在意識は変化が嫌いなので、どうにかして筋トレをさせないようにします。

そこで、「ああ、筋トレしないとなぁ。」という思考を作りつつ、「でも、今はこれをしなきゃだから、またあとで。」という思考も作ります。

そうやって、後回しさせ、後回しさせ、気が付いたら一日が終わってしまいました。
そして、「筋トレしなきゃって思ってたのに、出来なかった。ダメだな自分は。」と言って、より筋トレができない自分を作っていきます。

それを見ていたら、「筋トレなんて数分くらいで出来るんだから、先にちゃっちゃとやってしまえばいいのに」と思うでしょう。

ですが、やれません。

それは、傍から見ると不合理です。

しかし、本人の潜在意識からすると非常に合理的なのです。


「○○しなきゃ」も、自分を変化させないための潜在意識の工作なのです。

じゃあ、どうすればいいんだってなりますよね。

これは正解なのかは分からないのですが、僕は些細なところに組み込んで、かつテリトリーを広げるのがいいのではないかと思います。

たとえば、筋トレであれば、椅子に座るときにスクワットの要領で座ります。そして、それをやるたびに「筋トレできた」と拡大するのです。

一見すると普通に椅子に座っているだけですが、その中に筋トレであるスクワットの動きを組み込み、それをやるたびに、「自分は筋トレができる人間だ」と刷り込んでいくのです。

そうやっていくと、潜在意識の工作にやられることもないのではないかと思います。

これは僕も現在実践中なので、確実に解決できるかはまだ分かりません。
あくまで、仮説の一つとして捉えてもらえれば幸いです。

というわけで今回は、不合理という名の合理についてお話しさせていただきました。

本日も読んでいただきありがとうございます。


P.S
昨日から急激に気温が下がりましたね。一部地域では、大雪が降ったとか。この記事をお読みの皆さんも、寒さには注意してお過ごしください。

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