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日本版『ティーパーティー運動』(小さな政府を求める反増税運動)は、明治初期にあった

以下の文章は、渡瀬裕哉氏のブログ、『切捨御免!ワタセユウヤの一刀両断!』の中の『自由民権運動を左派ポピュリズムから取り戻す』を自己学習のために編集したものです。

隠されたナショナルヒストリーとしての〈真正の自由民権運動〉

 明治日本で国会開設を求める運動であった自由民権運動は、初期の頃は士族や豪農と呼ばれた当時の知識階級や資本家層が中心になった政治運動として起きました。

 この時期の民権運動は、減税、行政改革、地方分権を推進する小さな政府を求める政治運動でした。新たに発足した明治の中央集権政府に対し、自主自立を求める人々による誇りある政治運動でした。それらの人々の団結も一つの要因となり、明治政府は国会開設を認めることになります。

労働運動家を中心とする左派運動に変質

 普通選挙法の施行によってその担い手が労働運動家を中心とする左派運動に変質し、大きな政府による庇護を求める形で社会の官僚化を促進し、肥大化した政府が主導する全体主義国家への道を突き進むことに……

 この過程で初期の自由民権運動は労働組合運動の前史として位置づけられてしまったため、戦後史においてもあまり注目されることもなく、歴史教育においても左派の敗北の歴史の中に組み込まれてきました

 士族民権・豪農民権の自由民権運動は、性質が異なる秩父事件などの激化事件に何故か連なるものとして整理されてしまい、戦後も社会党系の労働運動側の歴史観のオマケのような位置づけに貶められて、初期の自由民権運動の誇りある人々による歴史が簒奪されてしまうことになったのです。

自由主義国家としての日本のナショナルヒストリーを取り戻す

 私たちが自由民権運動として、士族民権・豪農民権の流れとして位置づけるべきは、東京で国会開設運動に尽力した人々の動きであり、それらは日本のナショナルヒストリーとして再注目されるべきものと考えます。

 これらの人々が創り出した第一回帝国議会のテーマは減税と行政改革という本物の「民」の側に立ったものでした。今こそ、左派ポピュリズムに簒奪された初期の自由民権運動の歴史を国民の手に取り戻すことが重要です。

(この歴史の捻じれによる影響は、自由党と日本民主党の対立、そして55年体制に影響を与えることになり、日本に「小さな政府」を求める筋の通った政党が実質的に消滅する思想的な流れにつながる


ウィキペディアの解説

 自由民権運動とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。

 従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。

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