見出し画像

じゃ、愛ってなに? (昨日の記事の追記)

 昨日の記事(「ほんとうの西野亮廣は愛の人だった」)の追記。

  昨日の記事では、西野のマーケティング理論が、マノスベの法則を具象化したような、まるで数学の公式のような美しさがあるという意味のことを書いた。

 その西野を私が、同時に「愛の人だな」と感じた理由は、昨日も紹介したYouTubeの「物事を前に進めたい人は○○を辞めたほうがいい」という(ヘンな釣りタイトルみたいな)動画で西野が語っていた話を聞いたのがきっかけだった。

 動画の大体三分の二くらい過ぎたあたりで、「銀行員は安定している商売か否か」で銀行員さんと話が噛み合わなかった経験を語っているのだが、その経験を西野がどのように処理したか・・・その〈内的な処理の仕方〉に自分はちょっと感動したのである。

 なぜ、感動したかというと、西野の〈問題処理の仕方〉が、カタカムナでいうところの「フトマニ」という概念と一致していたから

 そしてこの〈フトマニ〉ということが〈愛〉の本質だと理解しているところから、西野を愛の人と判断したわけである。

 なので、今日は西野が自分の目的に向かって前進するために「自分の正論に固執せず、しかし自分軸を曲げるのでもなく、相手の心を尊重しつつ、お互いを生かすスベを苦労してでも探す」ことを選択したそのやり方が、なぜ〈愛〉なのか?
 その説明をしたい。

 ちなみに、「物事を前に進めるためにも〈正論を主張する〉のを辞めた」と語る西野の話の背景を動画を見てない方のためにちょっと説明すると・・・

 慶応生が就職先No.1として銀行を掲げ、その理由が「安定」ということが理解できない・・・という話を前半し、オンラインサロンを開こうと専用口座を作ろうとした西野が、断られ、銀行員に「銀行業はどの部分が安定しているのか?」を聞いたところ、銀行員を怒らせてしまった・・・というもの。

 これに関しては、現在AIが銀行業務にも浸出進出し、従来の安定した仕事と言い切れないご時世と見る西野と、これまでの安定職というイメージに安住している行員との認識のギャップが「話が噛み合わない」原因なので、要は「過去をみてるか?」「今現在〜未来を見ているか?」の違い→ 人それぞれの価値観、世界観の違い → どっちが正しいという問題でもない。

 ただ、西野は話が噛み合わない相手を自分の味方というか応援者に引き込みたい、というか引き込む必要があったので、どうすればいいか?思案した。

 (・・・確かに、本来人間がやったほうが良さげな「査定」業務までAIにやらせて人員整理している銀行業を見ると、オンラインサロンの先駆者である西野が、先見の明のない行員に口座開設を断られ、「じゃあ、銀行が安定していると考える根拠、安定部分はどこ?」と銀行員に問いかけたくなる気持ちはわかる)

 西野が面白いところは、「自分の方が先見性があった」と自慢をしないところ。
 それどころか・・・

 「僕の意見が100%正論だったとしても、結果的にこの行員さんを傷つけ、怒らせてしまった。不快な思いをさせている。
と認知し、


 エンタメで世界を取る、という目的を持っている僕としては、こう言った方々にも応援してもらわなくちゃいけない。ならば、「正論を出して相手を押し切る」というアプローチは間違いである、と言わざる得ない。

 「当時は正論を出すということが正しいと信じていたが、結局、それって相手を屈服させる作業でしかないのではないか?」と考えるようになった。

 → 結果、物事が前に進まない
 → 誰かを屈服させるような人間が、エンターテイメントで世界を取れるわけがない
↓ 
 「たとえどれだけ自分の言い分が正しかろうが、それによって誰かが苦虫を噛むことになるのであれば、意見を押し通すのではなくて、別の道を探ろう、という風に考えるようになりました」

 → これは「言いたいことを我慢する」ということではなくて、『別の方法、行動で伝える』ということ。 だと西野はいう。

 → そして、そういうやり方にシフトしてから、

 【正論で押し切ることのラクさを知り、回り道を探す苦労を知りました。】

 しかし、そういう風にしてからオンラインメンバーは爆発的に増えた。


「くれぐれも、僕の目的はエンタメで世界を取ることなので、まぁ、今はこのやり方でいいのかなぁと思っています」

正論のぶつかり合いの行き着く先って戦争なんで・・・
そんなものは正義でもなんでもないなぁ、と

 「キンコン西野が数年前にキッパリと辞めたこととは、そんなとこです。少し、大人になったのかな・・・性欲は全然衰えないですけど 爆」

 性欲の話はともかく(爆)こうして、西野の思考プロセスを追ってみると、西野の思考の方向軸が、彼の潜在能力を正く人間力として発揮する〈軸〉になっていることがわかる。(最近、自分軸という言葉がよく語られるが、本質はこうした思考を生み出す〈方向軸〉のことだろうと思う)

 そんなわけで、自分は西野のこの動画の話を聞いて、「これは、まさしくフトマニの概念=愛を体現しているなぁ」と思ったわけである。

余談

 カタカムナでいう『フトマニ』の意味は、ざっくり言うと「融合、融和」である。
 人間関係の諸問題で言えば、「相手の意見に安易に和するのではなく、相手も自分も生かす道を探る、対立の融和の道を探る」というようなことになる。

 相手の意見に無思考に屈することも、あるいは自分の意見を押し通すことも、〈相手も自分も生かす、対立の融和の道を探るスベ〉ではない。

 しかし、『別の方法、行動で伝える』という『回り道』を探すのは苦労する・・・と西野も言っているように、フトマニのスベを実行するのはエネルギーを使う。

 そして人間の脳というのは、元々エネルギーをたくさん消費するので、省エネを図ろうとする 

→ なので、西野のように「エンタメで世界を取る」という目的意識でもない限り、習慣化した思考パターン(=既存の意識スタイル)を自発的に破ろうという風に脳は通常、働かない。

 その意味では、何かしらの自分の夢や目標を持つことは有益だが、それを持つこと自体、難しい、というのは自分も体験上わかっている。そこでお勧めしてみたいのが、自分が今際の際(いまわのきわ)に「やり遂げておかなったら後悔することは何?」か思慮してみること。あるいは、自分の人生全体を貫いていると思われる目的意識の洗い出し。
(なぜ、それが重要かというと、それが自分の存在意義を明確にする作業につながるから)

 自分の場合、社会適応に苦労した若い頃(今もそうだが)、思ったこと「自分のような変わり者が、この世界で行きやすくなるような世界観を提示したい」という思いが、七転八倒のコンフュージョンな人生の通奏低音として鳴り響いており、思想遍歴や世界観の追求の旅を貫いている軸になっている。

 自分が今、こうしてこの違和感だらけの世界で正気を失わずに生きていられるのは、20代で学んだカタカムナの世界観と、三年前から読んでいる上宮氏のチャネリング情報の世界観のおかげである。
 この二つの世界観の(あまりに世間の常識とはかけ離れている世界観)をどのようにこの世界に接続し、必要としている人間に届けるのか?
 これが今の自分の課題であり「死ぬまでにやり遂げておきたいこと」である。

 それはこんな風にも言える。

 この理不尽な世界に押し潰されて亡くなる人間を一人でも減らすこと。 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?