貨幣論に関して”無税国家”ができない理由

※くれぐれも自分を客観的に見つめることのできない、人格的に未熟な人物が社会に幅を利かせることがないことを祈ります。
これは私の個人的なつぶやきです(笑)。
「無税国家はできるのか?」
「できる」と断言している人がいるとします。そうであるならいいのですが、私はできないと明言します。
できないものをできると言われてしまうと、それは迷惑意外のなにものでもありません。これが本テーマの趣旨になります。
※都度都度文章を書き足しているのでつながりがおかしいのはご容赦。なぐり書き的な書き込みになっています。
こういう文章が嫌いな人は読まないことをお勧めします。

MMTを主張すると
「MMT派は無限に国債発行できると言っている」
とか
「MMT派は3000兆円国債発行しても大丈夫と言っている」
というような発言をする反対派が出てきています。
MMTを主張している学者や言論人、そして私のような者の中で、私が知る限りそのような発言をしている者は”多分”いないと思います。
MMTの国債発行(=通貨発行)に関しては
「国債は原則無限に発行できる。ただしインフレがその抑制制限の目安となり結果的には無限の発行はできない」
という見解が常識的な解答例になると思います。

このように考える者が大多数を占める中で、もし
「MMTの考えに立てば国債発行は無限にできる」
という人物がおり、その人物がMMT賛同という立場であったとしたら、それはその他の言論者にとっては迷惑でしょう。

そして同じように、ある人物が
「無税国家はできる。ただし格差は解消すべきだから、それは累進課税や分離課税で調整する。」と言い出したとします。
ということは、論理的に考えれば徴税しているわけになり、無税国家はできないということになるのではないか?
と、頭のいい人は思うんじゃないだろうか?(ひろゆき風)
と思うのです(笑)

さて、説明責任(不利益な情報の事前開示)は大切であり、自分にとって不利益となり得る情報であっても、相手方に最初に知らせておけば問題自体が起こらないものである。
その説明を怠り、後になり「話が違う」と批判された場合、余計な説明の手間がかかることになり大きな損失を被ることになる。

かつてアメリカで「洗った猫を電子レンジで乾かそうとしたら、死んでしまった」という事案があり訴訟となった。結果、説明書に「猫を電子レンジに入れてはいけない」という説明書きが書かれることになった。
笑うに笑えない事例であり、こういうことは起こってみないと分からないことかもしれない。
しかし、「無税国家が絶対に可能」かどうかについては予想することができる。少なくとも”絶対に可能”と言えないのであるなら、そうでない可能性のリスクに備える必要はあるだろう。

そういう軽はずみに思える発言をしてしまう「世間知らずのゴキブリみたいな」言動はしない方がかっこいいと思うし、間違いは認めるべきだと思うのです。
こちらの田舎では失礼ながら「女の腐ったような◯◯◯(方言だが)」という言葉もあります。
「うるさいし迷惑なので、黙ってください(表現は変えました)」

タイトルには特定の誰かを誹謗中傷する意図はないのですが、こんなことがあると真面目に考えている者が迷惑するという趣旨でいくつかの事例をお書きしたいと思います。
そもそも馬鹿に付ける薬はないし、言ってあげても聞く耳を持たないから馬鹿というのであって、馬鹿は死んでも治りません。とりあえず-笑
でも迷惑なので書かざるを得ないこの良心の痛みは理解していただきたいものです(腹が痛い)。

MMTに関して(関係ないかもしれませんが)、「無税国家」が可能という書き込みを頑なに続ける人がいるとします。
そういう国も実際あるようです。
あるからできる。私も使うロジックです。
でも、少し待って。

無税国家に関しては、私も条件が整えば可能だろうと書いたりすることがあります。しかし最後には「格差が生じ、格差を是正するために徴税することになるから、結果的にはできない。」と締めています。

私はマイクラ的なシュミレーションゲームを作成し”銀行”が存在しない”世界(銀行による信用創造が起こらない)を設定した上で、国が最初に村人に通貨を配り、その後毎月10万円ずつ配るベーシックインカム社会の実験を行うことを提唱しています。
※銀行がある世界を設定すれば、信用創造機能により資産の偏りが生じ、あっという間に格差が拡大するからです。無税国家が可能という人はこの金融経済の基本すら理解していないということになります。ふわっとした印象で物事を断定してはならないのです。

上のシミュレーションを使い、無税国家が成立するか確かめてみればいいと思っています。
実際の「マインクラフト」は通貨のない世界の物語です。村人は基本何でもできるため自給自足が可能です。
ここで村人の能力を制限しそこに通貨の社会的機能をきちんと組み込むわけです。

個人的には無税国家は全ての取り引きが等質・均質に行われ、個々の村人の手元に常にお金が同額残存する条件なら成立すると思っています。単純にお金の量が増えていくのであればどこかの時点でベーシックインカムの支給量を減らしたり休止したりすればいいかもしれません。
しかし恐らくこういう状況にはならず、次第にお金の偏在も起こってくると予想します。
事業や商売に成功する村人が出てくると、そこに金が集中し、その金で資産を購入していくことによって格差が拡大していくからです。この格差は集金のシステムを組み上げる(事業的成功)ことによって起こる事象ですから、そのままでは格差は拡大する一方になることは分かるのではないかと思います。これが分からないのが「無税国家可能説」です。

マイクラ村の開拓が進み、村人の資産が拡大し、ベーシックインカムで通貨量を増やしていけば村人の資産はどんどん大きくなっていきます。
蓄財(資本の蓄積)が起こり増大すると社会に質的な変化が生じてきます。マルクスのいうところの弁証法的唯物論的帰結であり、大きな資本が産業構造に変化をもたらしていくのです。
産業化は生活を豊かにしていきます。しかし資産の拡大の大きさは村人個人によって違います。大きな資産を持つ村人がいる一方で、資産を持たないその日暮らしの村人も出てくることが予想されます。それは格差として表現されるものです。
村人達の生活はベーシックインカムで支えられますが、格差は次第に無視することができない規模に拡大していくでしょう。

ベーシックインカムをマイクラ世界の政府による”信用創造”であるとして、毎月給付を続けていけば、やがて実体経済の資源制約を越えた通貨がマイクラ世界を流通することになります。(人新世派の学者や言論人はここに着目し資源や環境問題を言説の柱に置いているようです。彼らはMMTを理解しているがベーシックインカムには反対と主張しています。みんなが豊かになれば資源が枯渇するからだそうです。それは格差容認ですけどね)
結果としてマイクラ世界にインフレが起こるかもしれません。
そうなると、どこかの時点でベーシックインカムを停止するか何らかの調整を加えるべきかと判断を求められるときが訪れるわけです。

しかし富の偏在による格差のある社会では、インフレ状況でベーシックインカムを打ち切られると生活が成り立たなくなる層が出てきます。
これはデフレというよりスタグフレーション。
■金はあり、どんどん蓄積される富裕層(消費しない)
■金がなく、その日暮らしの低所得層(欲しい物があっても消費できない)
に二極化します。
富裕層は生活に困ることはなく、低所得層に「自己責任。なんでもいいから仕事を選ばず働け」と言うでしょう(今の日本そのものです)
貧困層は低条件の「ブルシットジョブ」に従事することになり、富裕層の奴隷的仕事をすることになると私は予想します。
この状況がいいとは私には思えません。
解決策は富裕層の資産増大に制限を加え、貧困層への分配を維持するということです。この際重要なことは、富裕層のお金が貧困層に渡されるということではありません。税は財源ではなく、富裕層から徴税されたお金が貧困層にバラ撒かれるということを意味していません。
ですから富裕層がお金を取られたと思うことは筋違いです。お金の偏在を均し循環させることで経世済民に資するということです。

【追記:文の構成がチグハグになるかもしれません】
文章の初めころに「銀行がない条件の世界」について書いています。
ここで書いているマイクラ世界(銀行無し)でも格差が生じると思うのですが、現実の世界では銀行による信用創造が行われています。これはあっという間に格差を生み出すシステムであって、無税国家などをやっていると、格差が天文学的な差となって現れます。
だから「絶対に」無税国家はできません。
本当に真面目に思考実験している者を邪魔するのはやめろと言いたいです。

私は憲法改正をするなら「労働の義務」を削除し、「働かない権利」を憲法に明記すべきと考える者です。
ベーシックインカムは個人の尊厳を維持し民主主義を守る基礎(ベーシック)となると考えるからです。
この仕組みを永続化させることはできないか?

そのためには給付の一方で、貨幣量の調節をする必要があります。
それが『徴税』です。
その徴収法はいわゆる”累進性”を備えたものでなければなりません。
消費税はお金が無い者にも課される点で、税としてあってはならない悪手の方法論というのは余程の馬鹿でなければ分かると思います。
この皮肉ぐらい理解できる知性を持ちましょう。

税は信用消滅(通貨破壊)の手段です。
ここに「税は財源ではない」ことの根拠があります。
予算と税収の関連性は実はありません。予算は資源の範囲内で需要があればいくらでも予算化できるからです。徴収された税の範囲の中で予算を組むべきというプライマリーバランスに縛られる必要はありません。
PB黒字化を訴えるような人は、徴税で資産を調整されるような富裕層(リバタリアン)であって、徴税による格差の是正が機能すれば、庶民にとっては恩恵を受けることになります。

国家権力が必要な理由がここにあります。
税は国の財源ではない(別項に解説済)のですが、上記した通り、格差を是正するためにあり、そのために国家権力が必要になるということです。

これらのことから
「無税国家はできるか」
という問いに対しては「結果的にはできない」というのが私の解答になります。
現状できている国があるということに対しては
どういう国であるか考えてみればいいと思います。
産油国など、資源が豊富で、その収益が十分にある一方、国内に格差を生じるような企業があまりない。多くの物資を貿易で調達しているような国だと思います。
この場合、資源売却益を国民に分配し、消費した金額は国外に流れるということになれば、格差拡大の速度が遅くなります。だから見かけ上「無税国家」が成立しているように見えるはずです。
しかしこれでも格差は生じていると思います。
永久に続くかと言われれば「それは分からない」とお書きしておきます。
※たぶんできないでしょう。
つまり、資源が無限でない現実の世界において、金の循環が公平でない状態でもなければ無税国家は概念的に成立しないという結論になります。
逆に言えば資源が無限にあり、分配が公平になれば可能かもしれません。

ここまで書けば「無税国家が可能」という言説が、それを真面目に考えている者にとっては迷惑だということが分かるでしょう。
こういう類の発言は軽々になされてほしくないし、してはならないと私は思っています。
このような人の考えが、根底では正しいものであるとしても、私は「人格論」において言論活動に関わるべきではないと考えています。

もうひとつお書きします。
庶民党では「ベーシックインカム」を政策の柱に据えています。
ベーシックインカム自体は新しい概念ではなく、先行の研究者も数多く存在します。
ただ私はMMT(的)考えを理解するようになってから「MMTを基礎とする財源論+ベーシックインカム」という立場でベーシックインカム可能説を展開しており、これは私のオリジナルです。
数年前にユーチューブ等に書き込んだコメントをみても、自分はすでにベーシックインカム+MMTという立場で書き込んでおり、そこに至るににはさらに数年遡った思考実験と表現活動があるわけです。
私が書きはじめた当時は私が知る限り、誰もこの立場で意見を述べる論者はいませんでした。いるのなら証拠を示せば認めます。
こういうことを自分の専売特許のように主張する人が後から出てきたらどう思うでしょう?
「嘘も100回言えば本当になる。」
そんなことがあってはなりません。だから私は自分がオリジナルだと主張します。

ところで私がベーシックインカムについて書くときは、その支給額が大事であると常に書き込んでいます。
上に書いたインフレ懸念もありますが、一番大事なことは、
・ベーシックインカムを支給しても労働意欲が損なわれないこと。
・支給することによってさらに労働意欲が高まるような金額であること
です。
それについて私は「成人7(6)万円、子供は約半額3万円」として考えています。
これを仮に10万円としましょう。
この条件で4人家族をイメージすると、
月支給額が40万円。こうなると多くの人は
「働かないんじゃない?」
と思わないでしょうか?
こういう発言がベーシックインカム推進者への誤解を生んでいると私は思っています。

私の案(7万円と3万円)であれば20万円になります。

たしかに一人暮らしなら月10万円ぐらいないと生活できないかもしれません。
私は公営住宅(低料金・好条件)を増やし、誰でも求めれば入居できるようにし、所得によっては無料とすると提言しています。
私案の月7万円支給で家賃が無料なら、なんとか命は維持できると考えての結論です。

言い方は適切ではないかもしれませんが、「生かさぬよう殺さぬよう」がベーシックインカムの本義だと考えています。

ここまで考え発言している者からみると”雑な発言”は迷惑ということになってしまうわけです。
こういう人はパクリも平気で行うような印象があり、すべて自分が偉いというように見えます(個人の感想です)なんでも人のものが欲しくなり、横取りするという性向なのかもしれません。それは人格として卑劣ではないでしょうかね?

こういう人より「庶民党」を支持していただきたい。
あまり攻撃的で誹謗中傷的なことは言うべきではないと自制しているつもりですが、黙っていると止めどがありませんからお書きしました。
私に悪意はありませんが、そういう人は精神がおかしいか、逆に「悪意」があるように思えて仕方がないのです。
こういう人物は一見すると愛嬌があるように見えるから危険です。グレムリンを思い出します(笑)
しぶとく凹まず、反省せず。自己中で客観視(メタ認知)ができません。
批判されると感情的に「誹謗中傷」と断定し話のすり替えを行います(笑)
精神の未発達(幼い)があるということでないかと思います。

しかも上の立場の学者や言論人にはへつらい、無名の表現者には上から目線の都合が悪いと無視の一手で接するような気がします。
私は自分の見解にはわりと自信があるんですがね。

共感できる学者や言論人は協力していただきたいと思います。
フォローなどもよろしくお願いいたします。

【まとめ】
言論において自説の正しさを主張するのは決して間違いではない。
しかし”間違っていると第三者が思っている中で”、絶対に自説を曲げず、他者が「もういいや」
と関わるのを止めたとき
「自分が勝った。自分は正しい。」と主張するような人物がいたらどうだろう。
非常に危険である。
こういう人物はそれまでの人生で、おそらく同じような経験を何度も重ねてきているのではないかと推察する。
人間、傲慢も卑屈もどちらも望ましい態度ではない。
自信があることで傲慢になることは分かりやすい問題だが
コンプレックスを抱えている中で”一周回った自己肯定”も厄介な問題になる。どちらも柔軟さがなさすぎるからだ。
人から批判されるのは辛いし自分の問題を認めたくはない。
しかし傲慢であれ卑屈であれ、結果として相手に寄り添う態度がなければ迷惑でしかないのである。
これが分からないのであれば去るべきだ。
「分からない相手を変える?じゃーあんたは変わってくれるのか?」
ガキには議論はできないんですよ。それが分からないのだろうが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?