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花と向き合うというのは?

日本には古くから一生をかけて探究することを
「道」といいます。
武道、茶道、香道、書道、そして華道・・・

以前、煎茶道を習っていた時に、
「茶道も華道も、首をかけて学ぶから『道』とつくのですよ」
と教えて戴いたことがあります。
それは、首をかけると言うことは生命をかけて探究するということ。武道などは負ければ死ですから、まさに命がけですね。

では、生命をかけて探究するとはどういうことなのでしょうか?

必死になること?

脇目も振らずすること?

寝ずに努力を重ねること?


・・・そう考えると、多くの方は「無理!」と思われるかもしれませんね。


確かに、必死になったり、努力することも必要なのだと思いますが、まずは、「生命を実感すること」があってのことだと私は思っております。

いけばなを始めたころは、お手本の作品と同じように生けることに必死で、努力していました。
でも、その時は、目の前で生けている枝や花を全く観ていなかったと思います。
どちらかというとテキストのお手本の写真ばかり見て、「うまく生けられた」「ぜんぜんダメだ」などと一喜一憂していたのです。
そう、手に持っている本当の花や枝ではなく、その場にはない写真の中の花ばかり見て、考えて、必死に努力していたのですね。

ある時、「お花の顔をよく観てね。枝の伸び方をよく観てね。」と先生がおっしゃられました。
おそらく、最初から言われていたことだと思うのですが、必死過ぎて耳には聞こえていても、心では聴いていなかったのでしょう。

《花材》紅づる モンステラ スイートピー

そうだ、写真の花と、今、手にしている花は違うではないか⁉️
手に持っている花は、『今、生命がある』のだった‼️

そう感じると、単なる稽古事が、人生観を広げるものへ変わりました。
花の姿から人の心を学んだり、枝の姿から生き方を教えられたり、いけばなで花や枝に触れるたびに、「何か」を実感するようになったのです。
それは、さまざまなカタチで問いかけてきて、すぐには答えが解らなかったり、言葉にはならないけどピンと来たり、分かってもまた疑問が湧いたりときりがないのです。
でも、それは辛かったり、苦しかったりではなく、どこかホッとしたり、楽しかったり、前向きになっている自分がいました。


何故、この世の中に「いけばな」が続いているのだろうか?

何故、人は花を生けるようになったのだろうか?

何故、この世の中に花があるのだろうか?

何故、人は存在しているのだろうか?


そしていつしか花に向き合うということは、人生の一部となっていました。
花を生けることで、今の自分が何を感じているのかを確認することができるのです。花や木々の枝の姿から天地自然と人間である自分との違いを知って、そこから、天地自然に近づいてゆくことも実感できます。
気がつけば、探究を続けていたのです。
それが『道』に繋がってゆくような気がします。

花や木々という天地自然から本来の人間の姿を学ばせて戴く。
それが「いけばな」では出来るのですね。

武道や茶道、香道なども、天地自然と向き合うことができるふるまいなのではないでしょうか。
そして、やがては天地自然と人間が調和して、それが当たり前の生活となってゆくことが進化につながるような気がします。

ぜひ、花と、天地自然と向き合ってみてはいかがでしょうか?


【華まつり🌸天咲】は、天地の流れを受けて、天地をつなぎ、人と人をつなぐ、いわば天地流のいけばなを探究しています。
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