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言葉への戦術

ベルナール=マリ・コルテスの場合

なぜ なら それは ことば なの だから ことば の もつ 乖離 なの だから 耐え なければ ならない あるいは むしろ 耐える ために こそ ことば を 紡ぎ つづけ なければ 君(たち) とは 違う やり方 で ことば は 交換 の ための 通貨にも 似た 道具で あり その 道具 を 用いて 人びと は たがいの 隔たり に 架橋 する と 君(たち) は 考える だが はたして ことば はそれ ほど 自明 な もの だろう か 隔たり は 隔たり として 測定 可能だろう か もしも 隔たり が 単純 な 距離 の ように ある ならば 隔たりを 超える ために 必要 なのは ことば では なくて 行為 だろう 暴力 のような 皮膚 から 肉 へ 骨 へ 直接 に 働き かけ 記憶 では なく 傷を 涙 では なく 血 の 痕跡 を 残す ような けれども いま まぎれも ない 異郷 に いて 異郷 の ことば に 耳 を かたむけ 一語 として 理解でき ない その ことば に 耐え なお その 場所 に ひとり の おそらくは 拒まれた もの と して 在る もの に とって 隔たり は 距離 では なく むしろ 自分 じしん の 内部 の 空洞 あるいは なに か 根源的 な 欠落 の よう な もの と して とらえ られる の では ない か その ような 得体 の 知れ ない 空虚 を かかえ ながら まぎれ も ない 異郷 にひとり とり 残され て 在る 自分 を 知る ところ に こそ 発語 の きっかけ は ある 想念 や 観念 の はたらき と して では なく ゆえ も なく 異郷 に 置か れた 身体 の 違和 が 発する やむに やまれぬ 直接的な 衝動 と して その とき 発語 は 声 を たがい に 相手 を 識別 する ため の 固有 の 呼吸法 で ある 肉声 を ともなう 獣 の 叫び のよう に では なく 物乞い の 哀願 の よう に でも なく 合法 で あれ非合法 で あれ 人びと から 認知 され た 市場 に おける 正当 な 取引を 誘う よう に

異郷とは、「南」である/現実には、「南」は、どこにも存在しない/それゆえにこそ、「南」は、いま、この世界のあらゆる場所、あらゆる時に、やすやすと偏在し得るし、現に、偏在する/クレジットカードではなく現金を、武器ではなくIDカードを、哀れみではなく食べものを、つかの間の休息を、渇望するものたちのまとう故郷、それが、「南」である

もはや 誰 ひとり この 異郷 から 逃れ 異郷 で ある 「南」 の 完全 な外部 に 在る こと は 許され ない そこ で 発せら れる ことば は 文法や 論理 では なく 発せ られ た 声 それ 自体 の 感触 や 抑揚 に よって 意味 を 伝える 市場 での 商人 たち の 売り声 や 聖職者 たち の祈り の 声 の ように 声 は 異郷 に あやうい 一本 の 見せかけ の 境界線 を つくり だす たがい に 隔て られた 絶対的 な 他者 同士 が 出会う 留保 の 領域 空虚 と 渇望 と を それぞれ の 天秤 に 乗せて それ に つり合う 欲望 を 求めて たがい が たがい を 探り あう 取引 の場所 だ 取引 は 境界線 越し に では なく 位置 だけ が 明確 で 実体の ない その 線上 で 夜 と 昼 と の あいだ 薄明 や 薄暮 の ときに おこなわれる あらゆる 明かり に 背を むけ て 欲望 を 求め ながら欲望 を 防御 し 欲望 を あばき ながら 欲望 を 隠蔽 する 理解 したもの は 支払わ なければ なら ない だと すれ ば 財布 の 中身 は 最後まで 隠して おく ほう が 得策 だろう だから かくして 見せかけ の 境界線 の うえ で 売り手 と 買い手 との 関係 は 錯綜 し 天秤 に 投げ出され た 空虚 と 渇望 だけ が 時 と とも に ますます 肥大 し 増殖する ことば の 乖離 とは その よう に ある その よう に して 人びとは 出会い 決して 修復 される はずも ない 渇望 と 空虚 を 耐え ながらたがい の 欲望 の 交換 を 裏切り にも 似た 愛 の 行使 を 失墜 そのもの と して ある 飛翔 を 夢想 する 異郷 に あって 両足 は 依然 として に 大地 の うえ に ある だろう が その 大地 には もはや どのような 保障 も 残され ては いない ただ ことば に よって 仮構 された 見せかけ の 境界線 だけ が 彼我 に とって の 唯一 の 隘路 あやう 重力 を 保ち つづける 問いかけ の 自由 への 可能性 なのだ 語りつづけなければならない

サミュエル・ベケットの場合

 いま、この文章を読んでいるあなたを想像してみると、思わず笑いがこみあげてきてしまうのは、不謹慎だろうか。ぼくはいま、つとめて素直に、かつ正確に、ぼくの考えを文章にとどめ、あなたに届けようと努力しているが、こうして文章を綴っている「いま」という瞬間に、あなたはいない。ことばを介したこのような見せかけの出会いは、ごく日常的な、ありふれたものだろうが、しかし、いったん立ち止まって見つめなおしてみると、やはりどこかに、思わず頬をゆるませる、喜劇を含んでいる。
 ぼくが想像するのは、あなたの観念ではない。あなたの「いま」に取り残された、あなたの姿、身体の像についてだ。ふつうの出会いであれば最初の印象としてあるはずのその像が、この見せかけの出会いには欠け落ちている。そのために、かえってぼくは自由に想像し、その身体の特質を、勝手気ままに、きわだてて思い浮かべることができる。同じように、あなたもまた、多少の想像力をめぐらせて、ぼくの「いま」、こうして文章をつづり
ながら、無防備に放置されたぼくの身体の像を思い浮かべ、笑うことができるだろう。あるいはもう少し突っ込んで、ここにあることばのひと言ひと言に、想像上のぼくの音声、喉にひっかかったかすれ声と、いかにも軽薄な早口をあててもらってもいい。
 ぼくがいう喜劇性は、書き手と読み手とのあいだにかわされる観念の交流と、そこに置き去りにされたそれぞれの身体の様相とのずれから生まれる。それぞれが仮想する「いま」という時のへだたりが、そのずれをさらに増幅する。ベケット劇に頻出する「間」のト書きにぼくが味わう、どこか喜劇的な躓きの感覚も、おそらくこのずれに由来する。ベケットのテキストを読みながら、ト書きの「間」に出会うたびに、ぼくはいつも、えがかれている劇の世界とは別に、写真や映像で見知った作者の個性的な風貌を思い浮かべ、聞いたはずもない彼の声を聞き、思わずにやりとしてしまう。ときに重々しく、ときにそっけなく、ベケット自身の声が告げる「間」の宣告。それ
が頻繁であればあるほど、そのひと言はたまらなくおかしい。
 ベケットのト書きは、上演された舞台写真のどれもが、ひと目みただけて「ベケット劇」とわかり、しかも、演目や場面はおろか、せりふの個所まで識別可能というほど、きわめて正確な強靱さをもつ。有名な「田舎道。一本の木。夕暮れ」(ゴドーを待ちながら)のような場面設定をはじめとして、動作や感情表現への指定のひとつひとつが、選び抜かれた「究極のかたち」として、くっきりとある。
 それらのト書きと同様に、「間」のト書きも、ベケットの指定通り、素直にそのまま再現すれば、作者の意図は達成されるはずだ。けれども、実際に稽古をしてみると、これがなかなか難しい。ベケットの意図にそって、できる限り余計なものをそぎ落として再現された「間」は、うまくいけばいくぼど、純粋な「間」を実現すればするほど、俳優の身体を舞台のうえに取り残す。彼らの「なま」の身体をあらわにする。
 多くの観客とって、その「間」は、たとえばせりふを忘れた俳優の立ち往生とほとんど見分けがつかない。たとえ一瞬であったとしても、舞台のうえに現出するなにも起こらない時間とは、観客にとってはそのようなものだ。突然、目の前にあらわれる俳優の「なま」の身体は、当惑し、とりとめなく、わずかの哀愁さえおびて、所在ない。観客の残酷な視線がそれを笑う。はたして、この喜劇性はベケットの意図だろうか。
 確信はない。しかし、ベケットの「間」の忠実な再現は、舞台にそのような瞬間を確実につくりだす。作品を重ねるごとに、舞台のうえの俳優の姿を、とりわけ「なま」の身体をさまざまな手段で覆い隠し、行為の極端な単純化に向かうベケットも、あるいは、そのずれに気づいていたのかも知れない。
 けれども、どこまで身体を覆いつくし、行為を減らし、照らしだす明かりを制限しても、「間」や「沈黙」に取り残された俳優の身体を、舞台のうえから完全に消し去るのは不可能だろう。それは、テキストの背後にうかがわれる、ベケット自身のとり残された身体を忠実に反映して、観客の想像力に共振する。
 生の悲惨と滑稽を丸ごと再現するために、過剰なことばを召還する師ジョイスとは真逆な方向から、ことばをそぎ落として「灰色の沈黙」を見据えるベケット。取り残された彼の身体。その身体を喜劇としてとらえる想像は、やはり不謹慎のそしりをまぬがれないだろうか。

ハイナー・ミュラー/ウィリアム・シェイクスピアの場合

「何者だ?」
なにを語るか、ではなく、いかに語るか。
語るべきことは、いつもはっきりしている。
「かつてあった」よりも「あり得た」こと。
「生起しつつある」よりも「消滅しつつある」こと。
「未来にあり得る」よりも「あり得ない」こと。
なにを語るべきかは、おのずから定まる。
いかに語るかは、選ばれなければならない。
(あるいは、あらたにつくり出されなければ)
それは政治的な立場の選択、態度の表明である。
語られたことばには、自覚の有無にかかわらず、時代に強制された政治性がつきまとう。
無自覚に語られたことばは、たやすく、時代の権力と野合する。
(あるいは、いかにも見えすいた補完物に)
自覚的であるためには、ことばの身振りが吟味されなければならない。
奴隷の暗喩……
隠者の韜晦……
兵士の迷彩……
貧者の簡潔……
女衒の修辞……
その他、いろいろ……
ふたりの劇詩人は政治を自覚する。
時代を超えて、ふたつの政治性が呼応する。
王子ハムレットはデンマークにはいない。
十七世紀初頭のスコットランドとイングランドのはざま、一九七七年のソフィア(ブルガリア)にいる。
だが、ふたりは寓話は語らなかった。ミュラーも参照したといわれるカール・シュミットは、物語作者について言う。
「劇作家における主体性は、上演される劇についてゆく、その場にいる観客の知識と、彼ら居合わせることで生ずる公共性という点で、動かしがたい限界がある」(『ハムレットもしくはヘカベ』初見基・訳)。
衒学者の託宣を、ふたりはやすやすと逆手にとる。
(あるいは、あたかもそのようにふるまう)
囲いの中の「公共性」のるつぼにあって、「限界」ははばむものではなく、ふたりが用いる梃子の支点だ。
ふたりの絵図(物語)には、宇宙から私事までの見取り図が、あけすけな記号でえがかれている。
ことばは堅牢な外皮をまとい、鋳型となって肉体を鋳造する。
粗末な木の床がきしむとき、記憶の大地が揺り動き、崩壊した秩序と階層の残り火から、青ざめた乙女たちがよみがえる。
跳梁する阿呆、跋扈する亡霊。
偽装された物語の襞に、仕掛けられた哄笑の罠。
名もなき死者たちの軍団が、ふたりの砦の守備に立つ。
ブランクバースの唐草、無韻律の和声、攻撃ではなく防御のための、巧緻をめぐらした戦闘宣言。
永劫の遁走を準備せよ。
「あった場所/時」から「あり得た場所/時」へ。
「生起する場所/時」から「消滅する場所/時」へ。
「あり得る場所/時」から「あり得ない場所/時」へ。
ことばについての「なにを」と「いかに」は、そのようにして政治の場で出会う。

「彼女が肉切り包丁を持ってお前たちの寝室を通りぬける時、お前たちは真実を知るだろう」

結語

戦略なき風土(=トーキョー演劇/沈黙)に、戦術は可能なのか。

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