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宇多田ヒカルはパブロ・ピカソである


結局、宇多田ヒカルが一番つよい。

デビュー25周年ベストのSceince Fictionを聴くと、ひとりのアーティストの表現世界がこんなにも広くて深い事に改めて震える。宇多田ヒカルは今、いくつめの覚醒形態なんだろうか。もしエヴァンゲリオンやドラゴンボールのように宇多田ヒカルがキャラクター化されるとしたら、25年前と今とでキャラデザが全く違いそうだ。

「私だけのモナリザ もうとっくに出会ってた」とも歌っている宇多田はダ・ヴィンチのようでもあるけれど、神童としてキャリアが始まって商業的な大成功を収めていながら自己解体を繰り返して作風を変化させていく姿はピカソにも通じる。青の時代やばらの時代と呼ばれる20代からキュビズムや新古典主義、シュールレアリズムへの接近と変遷していったピカソのように、宇多田ヒカルのキャリアも時代ごとに幾つかに区切られるだろう。100年後には博物館か美術館で大回顧展が開かれてほしい。

ピカソがすごいのは、既存の形式やルールの中で美しい作品を作るだけでなく、そもそも何を美しいとするかの基準やルールごと書き換えた点にある。「美は見る人の目に宿る」と言うけれど、目の見え方を変えてしまったのだ。

近年の宇多田ヒカルにも、そもそも何が良い音楽なのかの基準やフォーマットを更新する「ピカソみ」にあふれたチャレンジを感じる。2024年の最新作のひとつでありScience Fictionにも収録されている「何色でもない花」では、いわゆるビートと呼ばれる打楽器類が冒頭の2分くらい入っていない。AメロやBメロやサビといった構成からも離れている同作を、テレビ番組「EIGHT-JAM」の特集では「ポップスの制約から自由になっている」と評していた。

*同番組の宇多田ヒカル本人のインタビューでは本作を「バッハ+トラップ+時空の歪み(ワームホール)」と称していた


さて、こうやって後付けで説明するのは簡単だけれど、人の美の基準を変えるチャレンジは実際は超リスキーだ。芸術に限らないが、新しい基準や価値を作るのと同じくらい、それを人々(または市場と呼んでもいい)に受け容れさせる事は難しい。ピカソや宇多田ヒカルの場合、何がそれを可能にしているだろうか。

この点、ピカソに関しては実はめちゃくちゃ営業が上手かった説がある。「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」という本によると、ピカソは新しい絵を描き上げると、なじみの画商を数十人呼んで展覧会を開き、作品を描いた背景や意図を細かく説いたという。

これは一種のマーケティング能力とも言えるだろう。つまり自分の作品をできるだけ高く売る能力だ。91歳の生涯で7万点以上の作品を残したと言われるピカソは、生前に1点しか絵が売れなかったゴッホとは対象的に、生きている間に最もセールス的に成功した作家でもある。(なお、念のため補足すると、ゴッホとピカソのどちらの作品が優れているとかどちらの人生が幸せかという話をしたいわけではない。)

19-20世紀の美術と20-21世紀のポピュラー音楽ではもちろん全くの別世界ではあるけれど、宇多田ヒカルの場合はどうだろうか。もちろんパブリシティ活動はしているし、各種のインタビューでは自分がやっている事を明晰に言語化している。でもマーケティング能力やいわゆる「ファンベース」の築き方が、宇多田ヒカルの革新性と商業性を両立させている一番の要因とは言えないだろう。

同じく長いキャリアで自己変革を繰り返したアーティストにはマイルス・デイヴィスやデヴィッド・ボウイのような、いろんな意味でのカリスマ性やファッション性で強力に世の中をリードしたアーティストもいる。けれどもそうしたタイプとも宇多田ヒカルは異なるだろう。

では宇多田ヒカルの音楽がスタイルを変えても売れ続けている要因は何か。結局そこかよというアホみたいにシンプルなオチなのだけど、もう圧倒的に声の力と歌詞の力が強いからだと思う。前述の「EIGHT-JAM」のインタビューでの関連するQ&Aを下の方に要約しておく。この記事を書こうと思ったのも同インタビューに答える宇多田ヒカルが教養ありすぎてレジェンドアーティスト感がすごかったからだったりする。

あと最後に余談で、ピカソは繰り返し鳩をモチーフにしていて、娘の名前にも鳩と名付けるほど好きだったらしい。で、ピカソにとっての鳩が宇多田ヒカルにとって何かと言えば・・・もう言うまでもなくクマのキャラクターである。政治の世界で強硬的な「タカ派」に対する穏健派を「ハト派」と呼び、投資の世界で強気な「ブル派(Bull)」に対する弱気を「ベア派(Bear)」と呼ぶ。偉大な挑戦をするアーティストは穏やかさや優しさのアイコンを好むのだろうか。

(おまけ)
EIGHT-JAMでの宇多田ヒカルインタビューQ&A要約
※発言そのままではないので注意

Q.
作品の制作において歌詞と曲は同時に出てきますか?
A.
・ほぼ100%メロディーが先に出る。メロディーが無いと言いたいことがわからない
・メロディーができると、母音と子音が決まってくる
・歌詞は母音と子音や文字数の制約があってはじめて作れる
・声と歌は「筆」みたいなもの。勢いをつけたり、止めたり跳ねたり、逆に弱くしたり。譜面に書けないような要素がある

Q.
「あなた」(2018)では母音”ai”が繰り返し登場するが、どこまで意識的に詞を書いているか?
A.
・メロディーが「みょーんみょーん」とはねるところを”ai”でやりたいと思った
・「あなた」については他の場所も頑張って音を揃えた記憶がある。「業火」→「荒野」→「夜空」など

Q.
作詞作業の締切について
A.
・作詞は「釣り」みたいなもの
・時間をかければできるわけではなく、待つのが仕事みたいなところがある
・意味のあることを言うのは苦しい作業。スティーブン・キングも”The most important things are the hardest things to say.”(一番大事なことは一番言いにくい)と言っている

Q.
日本語へのこだわりや意識の変化はありますか?
A.
・日本語が一番自由度が高い。語尾も変化させられるし、主語がなくてもよい
・ロンドンに住んでから、雑な日本語に触れない環境になった。高次元に整理された日本語や文学的な表現、童謡などに触れて意識が変わった
・Fantome(2016)というアルバムは母への弔いでもあり、母とは日本語で話していた事も日本語と向き合った理由のひとつ

Q.
One Last Kiss(2021)の中でセカンドバースでいきなり人力のシンセベースが入る、Electricity(2024)で通常の気持ちいいキーとは外れたコードを使うなど、曲の中でハッとする点や違和感が生まれる点について
A.
・セカンドバースは場面転換するところとしてよく使う
・聞き手もワンコーラス目が終わったところで油断している
・One Last Kissのベースについては元々はただのデータの入れ忘れ(!)
・道(2016)のセカンドバースの「調子に乗ってた時期もあると思います」も場面転換のひとつ
・Electricityの”between us”のコードがCやDではなくD♭になっているのも「うにゃー」という歪みを表現したかった

Q.
音楽を届ける対象には変化がありますか?
A.
・誰かに届けるという作り方をしていない。対象は結局、自分
・歌詞も独り言のような歌詞が多い
・でもそれを突き詰めれば人間みんなに当てはまるものになる

宇多田ヒカルが“名曲を生み続ける”ワケ。音楽のプロも唸る楽曲制作の秘密「制約があればあるほど…」他
筆者はこれに出てくる「何度聞かれようと変わらない答えを 聞かせてあげたい」というラインが特に好き。子どもは質問をする生き物なので、それにどんな答えを聞かせるかが親の愛情だと思う

参考
パブロ・ピカソ30絵画作品で読み解く作風の変化
岡本太郎「青春ピカソ」
なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?
クマは「癒やし」の象徴 宇多田ヒカルさんがコメント

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