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【#私が美術館にいく理由】どこでもドアでカタルシスを得る

今日は、わたしが参加しているメンバーシップオトナの美術研究会の「月イチお題note」5月のお題【#私が美術館にいく理由】を考えてみました。

時々、思うこともあった。「なんで私には美術なんだ?」と。
大体において興味関心から掘り下げていっても途中で飽きてしまうことが多いというのに、芸術鑑賞と読書だけはずっと続けている。
お題を振られたおかげでじっくり考えてみることができた。(超真面目&長文)

私と美術館のおつきあい

美術館へは中学生の頃から一人で通っている。
「一人で」というのがキーポイントだ。

高校生の頃何かのきっかけで友達と一緒に出かけた時、彼女の感想としては「かもめちゃんとは時々でいいかな」と、やんわりその後のお出かけを拒絶されました。笑
きっと没頭している横顔にドン引きされたのだと思います。
それから30年後くらいして一緒に美術館カフェでお茶した時に思い出して
かもめ:「そう言われてショックだったわ〜」と話したら
Kちゃん:「え、そうだった⁈ごっめ〜ん!」と笑い合ったな。
・・・そんなわけで、たまには同伴者がいるけれど、芸術鑑賞は「ひとりの時間」と決めてそれを大いに楽しんでいる。

基本的には「美しいモノをみたい」というごく当たり前の感覚を満たすために出かけるのだと思う。あるいは日常からの離脱というのもあるかもしれない。また、自分の中にはない感性に触発される瞬間というのは純粋に「いいものみせてもらったな〜」と多幸感に包まれる。

ここまでは表向きの答えで、友達に答えるとしたらこんなことを言うと思う。
もうちょっと掘り下げて美術館にいる時の自分のこころの動きを丹念に追いかけてみるとこんなことが言えそうだ。

美術作品は「どこでもドア」


西洋美術をみる時、わたしはそこにはいない。芸術という触媒を介して時空を超えた旅に出かけるからである。だからなぜ美術館へ出かけるのか、と問われれば、そこにはどこでもドアがいくつも設置されているからだ、と答えようと思う。

かたや、日本美術に対しては、遺伝子的にかあるいは環境的になのか、身体化された審美コードというものが内蔵されているかのようで、作品と対峙してもどこかしら既知の感覚があって時空の旅の「広がり」が西洋美術のそれと比較して小さくなる。そして西洋美術がわたしにとって異質な存在であるがゆえにその時空の広がりから得るものが強力で、だからこそ西洋美術により惹かれるのだと感じています。

そして、西洋美術でのこの視覚経験は「日本美術をみる」行為に客観性を与えるものとなっていて、見慣れてしまった、あるいは既知のものとして捉えがちな日本美術を能動的に鑑賞することを促してくれる。めんどくさい見方だけど、自分の中での「再発見」も多々あってこれでいいと思っている。誤解のないように断っておくと、日本美術を熟知しているわけではなく、あくまでもより身近な存在、異質に対して同質な対象であるというくらいの理解でしかなく実際には「再発見だらけ」であることをつけ加えておきます。

作品という「どこでもドア」からその先の旅、あなたはどこへ?と聞かれてもそれを的確に言語化するのはとても難しい。強いていうならば、いままでの人生で体験したことすべての記憶の中から作品と紐付けられるモノに浸って作品から得た美的感覚を俯瞰図に描こうとしている…というような作業を脳内でしている。
え、こういうのヤバい人っていいます?笑 わかってくれる人がいるといいな〜。

「カタルシス」あるいは「法悦」「シンクロニシティ」

もう一つは、鑑賞を通して時にカタルシスを得ることができるのも大きな魅力。
それは作品によっては法悦とも言い換えられるかもしれないし、稀にシンクロニシティのような現象を伴うこともある。

この3つが同時に惹き起こった事件(私にとってそれはまさに事件だった)は、2010年10月から翌年にかけて開催された「没後120年 ゴッホ展」でした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《灰色のフェルト帽の自画像》
1887年9−10月 ファン・ゴッホ美術館
図録の表紙を飾った自画像


当時はいろいろ辛い状況が続いていて心の余裕がなかったなーと今は回想するのですが、そんな中でも展覧会へ足を運ぶゆとりがあったようで。いや、ゆとりというよりもほんのひとときめんどくさいことすべてを放置して自分を取り戻す時間を切実に必要としていた、といったところ。

そこで目にしたゴッホの数々の作品がこわばっていたわたしのココロをゆっくりとほぐしてくれた。作画の初期から最期までを6章で構成したその展覧会で、「Ⅵ.さらなる探究と様式の展開ーサン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ」と題された第6章は大げさに言えば、作品を通して「魂と魂とが響き合った」とでも表現したい瞬間を得たのでした。

《サン=レミの療養院の庭》《草むらの中の幹》でゴッホの眼に映った景色を追体験するようになぞった。平坦な筆触の下草や短い筆触を活かして絵具の厚み(インパスト)に変化をつけた「ウェット・イン・ウェット」の技法が施された樹木の先端。それらを丹念に眺めていると、5月の陽光にときどき一面を這うように下草をゆらす風、どこかで鳴く鳥の声、若葉が放つあの独特の匂いと花の香り…これらに包まれて、そこに佇んでいる感覚になった。それとともに想像でしかないけれどゴッホの心境に近づいた気がした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《サン=レミの療養院の庭》
1889年5月  クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《草むらの中の幹》
1890年4月後半 クレラー=ミュラー美術館

そして《アイリス》の前に立った時あろうことか泣いてしまったのだ。不意打ちすぎてあわてました。目頭が熱くなる程度はあってもさすがに実際に泣いたことはなかった。帰路、わたしはとても満たされていた。いつまでも反芻していたいような、それでもスッキリした気分でまた日常に戻った。

フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリス》
1890年5月 ファン・ゴッホ美術館

《アイリス》の強烈な青と黄色のコントラストは、ゴッホが亡くなる数ヶ月前サン=レミでもう一度ドラクロワを手本として立ち帰ろうと制作された作品の一つ。

数年後、大学の授業でその青がはじめは紫だったものが褪色したのだと知ったのだけど、展覧会で味わった感動が減じることはなく、制作意図を調べていくことでその画業を深く知ることができた。

*作品表記は図録に従いました。

以上が【#私が美術館へ行く理由】第一章というところである。

美術史を学んでからの変化

ところが、美術史を学び始めると、いままでの美術館とのおつきあいがガラッと変化した。第二章の始まりである。

なんといっても作品をみる態度が違う。自分のための主観的な鑑賞から作品を取り巻く背景を通して鑑賞する客観的な視点を得たのだ。

それは絵画を描いた画家本人をも作品を取り巻く背景の一つとするような客観性であって、「ゴッホの作品を鑑賞してゴッホの人生や作品に対する想いを汲み取る」という「画家vs自分」あるいは「絵画作品vs自分」という枠組みではない。画家さえも作品から突き放して構成要素として並べてみる客観性とでも言おうか。

美術史を学んで一番良かったことは「美術をみる態度」を教えてもらったこと。

それ以前の主観的鑑賞態度を否定することではないけれど、アカデミック的鑑賞態度を得たことでより豊かな体験ができるようになった。私が望んでいたのはこれだったのだ!という喜びのうちに美術を楽しめるというのはなんとも嬉しいことである。

「美術をみる態度」の変化とは、たとえば印象派以前の芸術はアーティスト個人の生活史のような個人情報はむしろ本質を遠ざけることもあり得ると理解したことだ。
いまでは芸術作品とよばれるものは芸術家ではなく職人たちの手から作られた時代が長かった。工房で作られる作品は注文主の意向次第の制作物であって、現代のようなアーティスト自身の表現という側面は非常に小さい。様式や制作年代の違うそれぞれの作品が生まれた社会背景を多角的に検討して鑑賞する方法を知ったことは大きな収穫だった。

実際、美術史学というのはとても学際的な学問であるし、文化人類学、考古学、宗教学、歴史学、神話学、文献学、ときに化学など人文科学系学問のみならずバックグラウンドはあればあるほど実りが多い。それを考えるだけで軽く眩暈がしてしまうけれど稚拙でも知識を総動員して考察することは苦しくも楽しい作業なのです。その魅力には抗えない。

作品を芸術家個人の個性や人生とその生成物としてではなく、社会的コンテクストという大きな枠組みから読み解くこと。人間があるいはヒトがこの世に創り出そうとする社会システムの総体の中に作品がどのように位置づけされ得るのか。拙いながらも描かれたものの奥にある諸要素を解体して咀嚼し意味内容を再統合すること。こういう営みへと導いてくれる作品に出会える空間だから美術館に行くのだ、と変化してきている。


「うっわ!なんて素敵な色づかいなんだ」とか「ひゃ〜やばいやばいやばい」とか純粋に喜んでいる表層と、冷静な視線を画中のすみずみまで投げている中間層があり、それを分析・統合しようと試みる深層部というような重層構造でもってハイスピードに稼働している感じ。だからガッツリみた後はすっごくお腹が減ってカフェにふらふら引き寄せられてしまう…。


以上が、 #私が美術館にいく理由  です。
果たして最後まで読んでくれる人がいるのだろうか?
他の方に共感してもらえるところはあるんだろうか?

そうじゃないとしても、このお題で「なんで美術なんだ?」ということにいちおうの回答を自分なりに整理できてよかった。
ちいさな美術館の学芸員さんにお題を振られなければout putしないままだったかもだから、ありがとうです!

クレラー=ミュラー美術館とファン・ゴッホ美術館のリンクを貼っておきます。
芸術学のレポートリサーチですごくお世話になりました。
作品解説や最近の研究成果、作品を拡大して筆触を確かめられたりできます。
あなたの知らないゴッホがいるかも知れません。

おわり。



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