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黙ってよいのか|封殺から自由を守る

表現の保護を装う

見せかけだけの表現の自由を守る活動の建前は、
「表現の自主規制に反対することで、表現の自由を守る」
自主規制反対論者は、立法による表現規制には、反対する道理がない。

現時点では「表現内容に問題があるか」は、制作者と提供者の
自主的な判断に委ねられている。
そこに、公共性の観点から指摘を受けた場合、
必要性を検討の上、取り下げや表現の変更で対応する。
自主規制で済めば、立法による規制は不要である。

「表現の公共性」に関する議論が封殺されたら、いずれ
公権力をもって対処せざるを得ない。にもかかわらず、
反対する理由は、表現の自主規制を求める言論をつぶし、
気に入らない言論を封殺し、反対論者を蹴りだすこと。
そして、その戦果を誇示して、収益を獲得すること。
つまり、表現の自由になど関心がない。

暗黙の内に封殺され、抗議もできない社会を望んでいるのか。
表現活動が制限され、権力から監視される社会を望んでいるのか。
表現の自由が奪われ、言論統制される社会を望んでいるのか。

作品を擁護したければ、賛同を示せばよい。
作品を保護したければ、協賛すればよい。
作品を理解させたければ、場所を提供すればよい。

なぜ、必要なことは、何もせずに言論を叩くのか。
言論も表現の自由の一つだと知っているのに。

参考資料:
抗議とコンテンツ提供者の背景状況まで解説されている。

・抗議や妨害に関する法的な考え方が解説されている。

・民間人による抗議の封殺について、法的な見解が示されている。


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