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『まわりもの』

悲鳴のように空が鳴く。下方から吹く風が、身体に当たって砕け散る。目をあげると、視界が紅い。眩しいくらい紅い。
夕焼けが来たのだ。赤すぎる夕焼け。
「明日は春分だね」と昨日、誰かが言っていた。そういうことを思い出す。思い出してマヤは、足を踏み出す。
だけど、のぼれない。
階段なんかじゃないこれは輪っかなんだと気付いた時突然、足元がぐるぐる、まわり始める。手が足になりたがる。足が指先になりたがる。ぐるぐるぐるぐる。
なにかがちぎれる。まわるようにマヤは、すべてを一気に蹴り上げる。
「摩耶、摩耶!」
誰かが呼んでいる。呼びながら吸い込まれていく。だけど、聞こえない。
まわっている。階段。地球の回転に似ているけれど少し違う。吸い込むように。広がるように。頭の上で校庭が、足元で夕焼けが。渦を巻く。紅く。赤く。のぼりながら。
まわる。マヤは知っている。螺旋階段の真ん中は、いつだって空洞だ。

***

「摩耶さん(十八)、六日前より行方不明」
 いつもの地方新聞に出ていた。反射的にカレンダーを確認した。三月二十日、春分の日。時計はすでに十七時半を回っていた。日没まであと少しだ。一気に背筋が冷たくなった。
「マヤ!」私は叫んで、家の外へと飛び出した。
目がくらみそうになった。辺りは夕焼けで、真っ赤だった。
「マヤ、マヤ、マヤ」
 その赤さが鮮明さが、余計に私を駆り立てた。私は駆け出した。何度もマヤの名前を呼んだ。マヤと私のあの場所、校庭の隅の、あの階段の下を目指した。

 私がマヤに出会ったのは、紛れもない、校庭の隅の、あの階段のすぐ下だった。小学校一年生。ある春の日の昼下がり。たしかあの時、休み時間が終わった。私は、かくれんぼしていた校舎の脇から、大急ぎで飛び出した。
だけどすぐ、立ち止まることになった。いや、立ち止まらされた。
目の前に、足が伸びてきたのだ。
 にゅっ。本当に音がしたのかと疑ってしまうほど、それはそれは綺麗に、少女の両足が、空に向かって突き伸ばされたのだ。
 初めて見た、完璧なフォームの逆立ち。散らかった靴と、脱ぎ捨てられた白い靴下。見たことのない女の子。―――それが出会いだった。
 おどろいて焦って、立ち尽くす私の耳に、下方からは声が届いた。
「あたし、摩耶。マヤって呼んでね。」
 唐突すぎる自己紹介。それに摩耶とマヤとの違いというのが、よく分からない。
「う、うん。私、ゆう。」
 分からないのに、気づけば名乗っていた。
「ユ、ユウ?」
 彼女は驚いたように身体を震わせた。そして初めと同様、唐突に足を下ろしてしゃがみこんだ。私もしゃがみ込んだ。こげ茶色に光る彼女の両目を、真正面からのぞき込む。
 不意に彼女は、顔をふにゃふにゃにして笑った。見ているこちらが、気持ちよくなってしまうくらいの笑顔だった。
 満面の笑みをそのままに、彼女は言った。
「あえてうれしい。と、も、だ、ち。」
 とっさに言葉が出てこなかった。私は彼女を見つめた。彼女も、まじまじと見つめ返してきた。くるくると、舞い落ち始めていたはなびらが、真っ赤に染まった彼女の頬に当たった。
 私達はその日からと、も、だ、ち、になった。

 小学校の六年間、私達の放課後は、マヤの部屋で過ぎていった。マヤは家に帰ると、スケッチブックから真新しい画用紙を引きちぎり、きっちりと二等分した。そして片方を、私のほうに手渡してきた。マヤも私も、暮れるまでずっと、ぐるぐると色鉛筆を走らせ続けた。
 ぐるぐるぐるぐる……。
 マヤの画用紙からは、いつだってその音が聞こえていた。マヤが描く絵はいつも決まっていたのだ。
巨大な螺旋階段の絵。
 マヤは毎日、描き続けた。あるときは、下から上へのぼるにつれて、手すりの幅が狭まっていくもの。またあるときは、まんなかにある空洞の大きさが広がっていくもの。段差が変に高いもの。一段一段が黄色の線で縁取られているもの。手すりのないもの。小石のモザイクで作られたもの。一本の大木から掘り出してでもきたかのようになめらかな光沢を放つもの……。
 すべて実在するのだと、マヤは話した。マヤはもっと小さいころ、両親に連れられて世界中を旅した。そして遠い遠いすべての土地で、それらをぜんぶ、目にしたのだと。
 私は隣でうなずいたりしながら、お花やうさぎや、女の子の絵を描いていた。
 六年続いたあの放課後、色鉛筆片手に寝そべって。隣から流れてくるマヤの気配は、穏やかだった。ほかの景色の中では滅多に見られないような、その落ち着いた横顔を、すりガラスから射し込む午後の光が、照らしだしていたことを思い出す。優しい手つき、優しい目つきで緻密な絵と格闘するマヤは、ともすれば普通の女の子に見えてしまうことだってあった。
 特別なことをする日もあった。例えば年に四度、季節の変わり目の時期になると、マヤは地球儀を持ち出してきた。私たちは意味もなく、その地球儀をまわして遊んだ。
「いくら回してもね、ほら、正反対でしょ?」
 ある春の日、日本列島と南米大陸の二か所にセロテープをはっつけ、マヤは当たり前のことを言った。私は当たり前のことを聞いた。すりガラスから西日が射して、その日も午後が過ぎていった。

 小学校六年生。卒業式を間近に控えた春の日。先生は教室の戸棚から地球儀を取り出してきて、言った。
「これからglobalな社会へ羽ばたいていく皆さん。」
 マヤは叫んだ。このどうでもいいことが、マヤにとっては重要だった。私にとっても重要だった。マヤは教室を飛び出した。細い廊下を駆けだしながら泣いて、わめいて踊るように両腕を振りまわした。私も静かに後を追った。
 私達は校庭の隅の、あの階段の下に走った。「ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……」マヤはしきりに叫んでいた。叫びながら上靴を脱いで、靴下を放り上げて、そのまままっすぐに走った。
 やっと安心できる場所までやってくると、二人で地面に手をついた。
「せえーのっ!」
 マヤの涙声に合わせて、足を蹴り上げた。たちまち世界は反転した。隣でマヤの嗚咽が、小さくなっていくのが分かった。
「せえーのっ」
 心なしか勢いを増した掛け声に合わせて、今度はしゃがみこんだ。くらくらしている視界の向うに、ふにゃふにゃに砕けたようなマヤの顔が見えた。見ているこちらが逃げ出したくなってしまうくらいの、笑顔だった。
 しばらくして、マヤは立ち上がった。そのまま教室へ帰るのかと思いきや、不意に今度は、グラウンドの真ん中まで駆けていって、寝っ転がった。大の字に腕を広げ、空と、私を交互に見上げた。そして口を開いた。
「逆立ちするとね、んとね、空が見えるの。」
 質問に答えるかのようにマヤは言った。こんな話、初耳だった。
「地球の裏側に住んでる人たちはねえ、いつもこんな空を見上げてるんだなって、わかるんだよ。」
 見上げてみた真上の空には、二羽の烏が輪を描いていた。雲は重く垂れこめていた。不意に、雲間から一筋光が射しこんだ。同時にマヤが、小さな叫び声をあげた。
「だからね、安心するの。」
 何が?
 私が聞き返す暇もなく、マヤは自分で答えを言った。
「裏側の人たちの、気持ちがわかるからかなあ。」
 空に舞っていた烏たちは、どこか遠くへ飛んで行った。雲間の裂け目が大きくなって、その奥が見えた。
「だから、逆立ちが大事なんだね?」
 分かりきったことを質問すると、マヤは笑って答えた。見ているこちらが気持ちよくなってしまうくらいの笑顔だった。
 
 幾日かあと、マヤは地面に落っこちた。螺旋階段のてっぺんから。校庭の隅の木陰目指して。三月二〇日。春分の日。十七時五十七分。日没の時刻。私は走ったけれど、追いつけなかった。私は名前を呼んだけれど、届かなかった。
 だけどマヤは死ななかった。校庭の隅の、あの階段のすぐ下で。小さな頭を真っ赤に染めて。マヤは横たわっていた。駆け寄ってきた私に気づくと、口元に笑みさえ浮かべてみせた。頬に張り付いた茶色い髪をかき分けてやると、血糊でべっとりと濡れていることが分かった。
「マヤ」
 呟きが漏れた。
 地球儀をまわすように、ぐるぐる色鉛筆を走らせるように、埋まらない空洞を駆け上ってでもいくかのように、掠れた声でマヤは言った。
「逆立ち…。しようと思って。思ったから、ね。」
「非常階段の上で?」
「うん。ここが一番安心だった」
「ばか」
 もともと大きなマヤの目が、一層見開かれた。だれか大人の悲鳴が聞こえた。急に辺りが騒がしくなった。
 摩耶、摩耶ちゃん。摩耶ちゃん。摩耶!
 大人たちが名前を呼んだ。サイレンの音が大きくなった。

***

悲鳴のように空が鳴く。下方から吹く風が、身体に当たって砕け散る。目をあげると、視界が紅い。眩しいくらい紅い。夕焼けが来たのだ。
「明日は春分だね」と昨日、誰かが言っていた。そういうことを思い出す。思い出してマヤは、足を踏み出す。一段二段と駆け上る。
螺旋階段。てっぺんに手のひらをついて、足を蹴りあげる。
「マヤ、マヤ!」誰かが呼んでいる。呼びながら吸い込まれていく。
まわっている。足元。世界。地球の回転に似ているけれど少し違う。内界に吸い込むように。外界に広がるように。頭の上で校庭が、足元に夕焼けが。渦を巻く。紅く。赤く。上りながら。
「マヤ、マヤ、マヤ!」また誰かが呼んでいる。ふっと耳を傾けてみる。聞きなれた声だ。
突然、体の中で真っ赤ななにかが、恐ろしいような、鮮明ななにかが、まわり始めた。マヤは足を下ろした。しゃがみ込んだ。やさしい瞳と目が合った。
どうしてなのだかわからない。だけど笑ってしまった。ともだち、も静かに笑った。見ているこちらが、気持ちよくなってしまうくらいの、笑顔だった。
「マヤ」
ともだち、は、マヤに呼びかけた。そしてゆっくりと、螺旋階段をまわり始めた。
マヤ自身もぐるぐると、真ん中の空洞をまわっていく。
一歩一歩を踏み出すたびに、マヤは進んでいた。ユウも登っていた。螺旋階段の、ちょうど真ん中で、ふたりは出会った
「あえてうれしい」
あたらしい六年が、まわり始めた。

 

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